異をとなえん |

ロジステック曲線型成長では普及率が半ばを過ぎても経済は成長を続ける

2013.09.09 Mon

17:19:28

ロジステック曲線型成長においては、普及率が半ばを過ぎると需要の低下が始まる。
それに対して生産能力は需要が最大になったときのままだから、生産から需要を引いた分の余剰が生まれ、貯蓄に回されていく。
「ちょっと待った。生産能力より需要が少なかったら、生産されないだけではないのか。」と思う人がいるかもしれない。
それについては最終的に帳尻を合わすので、この時点では余剰が生まれていくと思って欲しい。
なお貯蓄という言葉を使っているが、経済学的な意味での貯蓄ではない。
ロジステック曲線型成長の原動力である新製品以外の、余剰のような意味だ。

この余剰は貯金に回されるので、金融機関は運用しなければならない。
普通の意味での融資は間に合っているので、資産の購入を始める。
普通の意味での融資というのは、ロジステック曲線型成長の原動力である新製品への融資と設備投資を含めたようなものだ。
それらは全て一番最初に述べた需要に含まれているので、ここでは別の話になる。
生産余剰は増え続けるので、資産取引の購入も拡大を続ける。
当然資産価格は上昇することになる。

資産価格が上昇するのは、需要が増え続けるためだけではない。
理論的裏付けもある。

ロジステック曲線型成長においては、普及率が半ばを過ぎるとく「ロジステック曲線型成長で金利はどう変化するか?」で述べたように金利の低下が始まる。
金利が低下すると資産価格は上昇する。
1年で地代100万円を稼いでいた土地は、金利が10%だと1000万円だが、金利が5%に低下すると2000万円の価格がつくからだ。
金利が下降局面に突入したことによって、資産価格は恒常的に上昇を続ける。

資産の所有者は資産価格が上昇しても持っているだけでは、利益を実感できない。
売却しなければ毎年入ってくる利息などの収入は変わらないからだ。
資産を売却して利益が出たことを実感して、消費が増えていく。

資産価格の上昇による利益はあぶく銭に近い。
労働を対価として支払う消費では、労働に見合わない製品やサービスの消費はしない。
それに対して資産効果による利益はあぶく銭のようなものだから、効用を厳密に判断せず、ルーズに消費が行われる。
利益をそのまま使ってしまうから、たいして重要でもない新製品が売り上げを伸ばしていく。
労働を対価にする消費は本当の意味での技術革新がなければ起こらないのに、資産効果による消費は作れば売れる世界だ。

それでは資産の価格が上昇したことによる消費の拡大はどれほどのものなのか。
1億円だった資産を1億2千万円で売って2千万円の利益が出た。
2千万円は得をしたと大きな気分になって消費したが、1億円は元の資産なのでそのまま持っていく。
それでは1億2千万円分の余剰を生み出すほど消費は拡大しないかというと、そうではない。
1億は再度貯蓄されるので、その分も資産の購入に回される。
そうすれば、再度資産取引が発生して消費の拡大が生まれるわけだ。
資産価格の上昇による消費の拡大が生産能力の余剰と一致するまで、資産の取引は増えていく。

結局ロジステック曲線型成長においては普及率が半ばを過ぎても、生産量は変わらないままだ。
生産能力の余剰は資産価格の上昇による消費拡大によって生産に使用される。
そのとき資産取引は生産能力の余剰以上に実行される必要がある。
単に資産価格が上昇するだけでは、消費するための金が手に入らないからだ。

ロジステック曲線型成長においては普及率の半ばを過ぎると生産は減少に向かうはずだが、資産価格が上昇するとそうはならず、生産余剰分は資産効果によって生産・消費されるとした。
しかし、それでは生産量は最大のまま変わらないはずだ。
ロジステック曲線型成長をしたと思われる戦後の日本経済ではGDPは成長を続けている。

GDPが上昇する理由は何だろうか。
人口の増加、狭義の生産性の向上、物価の上昇などが考えられる。

今までは全ての経済で人口は増加していた。
人口の増加はロジステック曲線型成長モデルにおいて枠組み自体を拡大している。
その分GDPが上昇している。

狭義の生産性の向上も年ごとに続いているはずだ。
同じものを作るのにしても、必要とする労働力が減少する、あるいは必要とする資源が減少すれば、生産能力は拡大する。
生産能力が増えれば生産余剰も増え、それが資産効果による消費に向かうのだからGDPは拡大することになる。

もう一つ物価の上昇も大きな影響がありそうだ。
資産効果によって生まれる新製品・サービスは既存のものに比べて価格が安くなりにくい。
あぶく銭による消費なのだから当然だろう。
すると労働時間と見比べた場合、相対的に既存の製品・サービスは価格が低くなる。
つまり、資産効果によって生まれる新製品・サービスは相対的に高く評価されるので、その生産の割合が増え続ければ、労働者自体の生産量が増えたと解釈される。

以上の三つの要因が年ごとに2%ずつ成長していくならば、合計すると6%成長になる。
そのぐらいの成長が可能ということだ。
結局ロジステック曲線型成長においては普及率が半ばを過ぎても経済成長が続くことになる。
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ロジステック曲線型成長で金利はどう変化するか?

2013.09.05 Thu

16:51:51

ロジステック曲線型成長の一番上と一番下で金利は0になるとした。
それでは、中間において金利はどう変化していくだろうか。
そして金利が最大値を示すのはどこだろうか。
単純に考えると、普及を開始した時点で金利が0なのだから時が経つにつれて段々と上昇し、普及が半ばに達した時点で金利は最大を示し、その後金利0に向かい下がることになるだろう。
そう考えていたのだが、理屈を説明しようとすると難しい。

金利は当然金融市場で決まる。
貯蓄がたくさんあり、投資先が少なければ金利は低くなる。
貯蓄が少なくて、投資先が多ければ金利は高くなる。
ロジステック曲線で考えた場合、投資先は普及率が低い時点では少なく、中間点では最も多く、普及率が高くなればまた少なくなる。
つまり貯蓄が一定であれば、単純な考えは正しい。
しかし、貯蓄は一定だろうか。
そんなことはない。
一番最初の普及率が0の段階では投資先がないのだから、誰も貯蓄しないと結論づけていた。
投資先がないのに需給が均衡するには、所得を全て消費する必要があるからだ。
つまり、普及率が0の段階から新製品が生まれて投資先が発生したとしても、その時点では貯蓄は0なのだから金利が高くても全然おかしくない。
金利は低いのか高いのか、ここで悩んでしまった。

結論から言うと金利はやはり低い。
ロジステック曲線型成長の一番上と一番下では貯蓄は0であっても、潜在的余剰はたくさんあると考えるべきだ。
狭義の意味での生産性の向上は常に続いている。
狭義の意味での生産性というのは単純に既成の製品を作り続ける場合のことを意味している。
逆に広義では、新製品も含めての生産性の話になる。
だから狭義の意味での生産性向上が常に続いているということは、生産に必要な労働は減っていくことを示している。
それなのに新製品が生まれず、需要が増えていなければ、労働時間が減っていて人々の余暇はありあまっているわけだ。
そこで革新的な製品が生まれ需要が創出されれば、それを欲しさに人々は労働時間を増やして貯蓄を行う。
つまり投資に合わせて貯蓄が生まれることになる。

投資と貯蓄は事後的に常に同じになるのだから当然の話だ。
一瞬売れ残った商品があるときは、どうなるのかと思う人もいるだろう。
しかし、経済学的には売れ残った商品は在庫投資という名の投資になるのだから、勘定は合っているのだ。
そして本質的な経済の姿でもある。

今、貸借が何もない、完全にちゃらである経済の始まりを考えてみよう。
始まりなのだから商品は何もないので、まず労働者は企業に労働を売って商品を作り賃金をもらう。
賃金が貨幣だと経済の一番の始まりなのになぜ存在するかという疑問が生まれるから、一番最初だけ企業同士が連合を組んで企業間では常に使える手形で賃金を支払うとする。
そうすると、この瞬間労働者は手形という形で賃金を全て貯蓄していて、企業は商品の形で投資をしていることになる。
つまり投資と貯蓄は一致しているわけだ。
次の瞬間、労働者は消費者となり、受け取った賃金で商品を買い消費する。
この場合も売れ残りの商品は投資扱いとなり、労働者が使い切れなかった賃金、つまり貯蓄と一致するわけだ。
商品の価格設定により一致しないのでは、という疑問が生まれるかも知れないが、商品の価格の合計と労働者の賃金の合計が一致しない部分は企業の利益や損失となり、つまりは投資家の所得へと変換される。
結局それらを含めた総体で考えれば、商品の価格合計と所得の合計は一致する。

それでは金利の話に戻ろう。
おおざっぱに考えてみると、金利というのは労働者の間の労働の貸し借りの場合のレートになる。
たとえば、ここで一人が10年働くと作れる新製品があるとする。
10人で同時に働くと、1年で一つ新製品ができて消費することができる。
10人の生産性はみんな同じで、一人一人1年ずつ新製品を手に入れるとしよう。
10年も待っていられない直ぐに欲しいという人は後に労働で返すからと、金利を支払って最初の製品を買う。
金利10%だと、他の人より毎年10%労働時間を増やす理屈だ。
残業時間を増やせなければ11年働く話になるかもしれない。
当然最後の方に手に入れる人は10年まるまる働く必要なくなる。
それが貯蓄をした効果による利息になるわけだ。

ロジステック曲線型成長においては、新製品が出た直後、欲しがる人は少なく、新規に発生した労働時間の追加分も多数の労働者に分散されるから、金利は極めて低く定まる。
直ぐに欲しがる人は高いレートを支払っていいと思っても、新規に追加する労働を安い価格でいいと思う人がたくさんいるからだ。
普及率が向上するにつれて潜在的な労働余剰は少なくなっていき、レートは上昇していく。
それでは最大値はどこになるだろうか。
それは新規に労働時間を追加しようとしても、労働者がもう無理だとあきらめる時点だ。
需要が増えていくことで生産が活発になり、後で楽ができるからと働いても、人間である以上限界がある。
残業代や貯蓄に回した場合の金利が高くなっても、割りに合わないとあきらめた時点で金利の最大値を示す。
つまり労働時間が最大に達した時点で、生産が最大化した時点だ。
ロジステック曲線型成長においては普及率が50%近辺で急激に上昇している部分で生産が極大化する。
だから金利はその近辺で最大となる。

はっきりしない部分について補足しておこう。
まず設備投資の問題がある。
今回の説明では設備投資の話が完全に抜けているが、設備投資があれば話が違うと思う人もいるだろう。
しかし、設備投資を考慮しても基本的には同じである。
設備投資は年で使用期間が定まっているが、本質的には作成個数だろう。
製品を一つ作るごとに設備は磨耗し、残り作れる個数が減っていく。
そうすると設備投資にかかる費用は最終的に新製品1個に対して幾らと厳密に定まる。
巨視的に見れば、新製品の生産個数が最大になるとき、設備投資も最大になると考えていいので問題はない。

もう一つの問題は生産が極大化したときの賃金だ。
労働者が残業をして働くときは、普通残業代として賃金が割り増しになる。
生産が極大化したときも、金利が上がらずに、残業代が上がるだけの解があるのではないだろうか。
これについてはよくわかっていない。
生産性が同じならば、労働の貸し借りによる本質的な意味での金利のレートは、追加残業ができないほど生産が極大化した時点が最大になるのは当然に見える。
けれども、それが普通の金融市場においての金利と一致するかどうかはよくわからない。
大体一致するだろうとは思うのだが、うまく理屈づけできない状況だ。

以上をまとめると、ロジステック曲線型成長では、金利は普及を開始した時点で0だが、時が経つにつれて段々と上昇し、普及が半ばに達する頃生産が極大化した近辺に金利は最大を示し、その後0に向かい下がる。
単純な事前予測通りで正しい。
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続:ロジステック曲線上の最初と最後では金利は0となる

2013.06.27 Thu

21:08:31

前回は中途半端なところで終わってしまった。
技術革新が停止した時点での資産価格について少し考えたので補足しておく。

技術革新が停止した状態では、金利が0になり、貯蓄自体がありえなくなる。
そこまでは自明だと思ったのだが、株式みたいな資産の価値がどうなるかわからなくなった。
金利が0になるなら、株式の配当もなくなるのが自然のような気がするし、その場合株式自体の価値もなくなってしまうだろう。
そうするとすべての資産も価値がなくなるのだろうか。
でも、それはおかしい。
たとえば世界に一つしかない貴重な美術品ならば当然価値が生まれるはずだ。
欲しい人がいれば値がつくだろう。
だから資産価格が0になるなんてことはありえない。

それでは株式みたいに一定期間ごとに配当が分配される資産はないということだろうか。
それもおかしい。
美術品を展示して料金を取れば、期間ごとに収益をあげられる。
企業が美術品を所有して収益を挙げ配当を分配するならば、その企業の株式は価値を持つはずだ。
株式は価値を持つけれど、預金や債券は価値を持たない。
何が違うのだろうか。

答えは、預金や債券はお金を投資に回さなければ価値を生み出さないけれど、株式は価値があるものの所有権が変わるだけということだ。
価値があるものの量は有限なので、売買されたとしても富が増えることはない。
それに対して、預金や債券、特に銀行預金は量を無限に増やせる。
だから金利がついていると富が無限に増えていってしまう。
技術革新が止まった世界というのは、新しい富を生み出せなくなった世界だ。
それと矛盾するので金利は0でなくてはいけないことになる。
富が増えるのでなければ問題はない。
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ロジステック曲線上の最初と最後では金利は0となる

2013.06.24 Mon

21:07:10

ロジステック曲線上の最初と最後、技術革新が停止した世界では金利はどうなるだろうか。
もちろん技術の進歩が完全に止まった世界というのはありえないので、理論的な状態だがそのような状態を前提として考える。

人口は恒常状態で人口構成も変わらないとする。
技術進歩がない世界とは関係ないけど、経済がロジステック曲線形に成長する命題での前提だ。
資源などは全て再利用可能と仮定する。
資源の量に制約を設けると、枯渇した場合には技術革新が必要になるからだ。
このような仮定の世界では当然成長自体が起こらない。
だから成長するための新規投資自体がありえない。
あるのは古くなった設備の更新投資だけだ。
この費用は設備の減価償却費でまかなえるので、新たに借金をして投資するなどということは起こらない。
投資先がない以上、銀行が預金を集めても貸し出すことができないので、金利は0になる。

この時銀行に預金する行為はありうるだろうか。
金利0なのだから預けること自体がありえない理屈もあるけれど、将来の不安とかで預金するとしよう。
しかし、これは貯蓄と投資が必ず一致するという経済学の恒等式に反することになる。
だから投資がない以上、貯蓄も起こらない。
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「国民国家」は終焉を迎えているのか?

2013.06.22 Sat

20:10:24

境界がゆらぎ崩れていくなかで葛藤が起こっている時代という記事を読んだ。
「国民国家」は終焉を迎えるという主張に疑問を持ったので、反論してみる。

記事の直接の内容は、佐々木俊尚氏の「レイヤー化する世界」の書評だ。
その中で佐々木氏の主張でもある、「国民国家」が終焉を迎えつつあるという主張に同調する形で意見が述べられている。
「レイヤー化する世界」はぱらぱらとめくってみたのだが、どうも意見がピンぼけしているようで、私には具体的に何を主張したいのか焦点が見えなかった。
この書評では「国民国家」が終焉を迎えることに主張がしぼってあるので、反論してみる。

「国民国家」が終焉する理屈は、世界が「場」によって変化し個人が国民国家の境界を越えて動くようになるので、国民国家の重要性が薄れるというものだ。
「場」とかの意味はわかりにくいのだが、下記に引用している部分を読むとなんとなくわかる。

引用開始

佐々木俊尚さんがおっしゃる「場」とは、たとえばサッカーならサッカーが「場」になってきます。そこにいくつものレイヤー(層)が重なっています。J1やJ2といったレイヤー(層)があったり、海外リーグのレイヤー(層)があって、選手たちは異なるレイヤーの間を行き来しています。

(中略)

選手たちはサッカーという「場」で、あるときはヨーロッパリーグというレイヤー(層)、あるときはジャパン代表という「レイヤー(層)」、あるときはJリーグというレイヤー(層)を行き来しているのです。こういったあり方は、ウチとソトが分かれた「国民国家」が主役の時代ではあまり一般的ではなかったことです。
引用終了

要するに、人がいろいろな多面性を持って活動している、それだけの話に見える。
昔は国をまたいだ多面性は珍しかったが、現在ではそれがありふれているということだ。
ただ、多面性を持って活動しているといっても、それは経済的な活動に限定されているのではないだろうか。

「国民国家」の本質は安全保障だと考えている。
外敵から防衛や社会保障だ。
外敵からの防衛は中世だと封建領主によって守られていたこともあるが、歴史を通してほとんどの場合国だった。
社会保障は昔は国の担当範囲ではなくて、家族や宗教団体が担っていたこともあるけれど、近年では国が主体となっている。
これらの安全保障の特徴は、交換によって双方が利益を得ることができる経済関係ではなく、ともすれば贈与によって一方だけが得をする関係ということだ。
防衛活動は健康な男子が主としてたずさわり、共同体が生きのびるならば彼らがほとんどの損を引き受ける。
社会保障も金持ちが貧乏人に対して援助する側面が大きい。
つまり、安全保障は経済活動のような対等な関係から生まれるものではなくて、家族や社会共同体といった連帯感を持った関係でしか成立できないということだ。
現在では「国民国家」がその連帯感を持つ関係に適しているので、世界に広がっている。

「場」という概念は理解した限り、経済関係でしかない。
サッカー選手が急に失業した場合には、サッカー業界が保険みたいなものは提供できるかもしれない。
けれども業界自体が不況によって崩壊すればダメになることもありうる。
誰であろうとも急に困った場合に助けてくれる組織が必要だというのが、普遍的な考えではないだろうか。
その組織というのが「国民国家」ならば、必要性はけっして薄れないだろう。
そして私には、現在「国民国家」以外にそれを担える組織はないように思う。

「場」にはSNSのような交換の関係でもなく、贈与の関係でもない関係が含まれるかもしれない。
社交的な関係とでもいうのだろうか。
ただ、それはいざというとき社会保障の代わりになるのだろうか。
擬似的な共同体には慣れても、地域性がなくては緊急時に助け合うことはできないだろう。
普段からリアルに会っているならば普通の友人と同じことだ。
それだけでは、今の社会保障の代わりにはならない。

戦争がなくなり、個人がホームレスになることなど起こらない時代になれば、いざというときの最後の助け手である「国民国家」は必要なくなるかもしれない。
けれども、少なくとも今はホームレスがいる時代だ。
そのような環境で「国民国家」は終焉を迎えない。
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世界経済もロジステック曲線形に成長する

2013.06.19 Wed

20:54:46

前回書いた、「経済はロジステック曲線形に成長する」という命題を世界全体に拡張しよう。
本質的にはこちらの方がもっと自明である。
世界経済が国家によって分断されていなければ、一つの国と変わりない。
国家に分断されることによっていろいろと違いが出てくるけれど、完全に分断されていれば別世界と同じなので無視できる。
冷戦期のソ連圏のように、アメリカを中心とした資本主義世界と貿易はしていたけれど、技術や資本がほとんど移動しなかった国も別世界と考えていいだろう。
それらの国は世界経済に組み込まれた時点で人口が増えたと解釈すればいい。
ほんの少しの人口の増加は世界経済の飽和する時期が少し延びるだけで、ほとんど影響を与えない。
普及期の後半に巨大な人口が世界経済に参入したならば、そこから再度急速普及期からやり直すと思えばいい。
成長曲線がロジステック曲線とは少し異なっても本質的にはほとんど変わりがない。

ソ連圏みたいな別世界をのぞけば、国の文化や制度の微妙な違いによる、成長スピードの違いは新製品の普及率の違いと同じようなものだ。
流行に敏感な人間は新しい製品にすぐに飛びつくし、鈍感な人はいつまでたっても手を出さない。
国の場合も、成長するための仕組みが整っている国は最初に成長していくし、経済成長に向いてない制度の国はいつまでたっても貧しいままとなる。
新製品への感度がロジステック曲線を生み出しているのだとすれば、国の制度の違いも同じだろう。
どれだけ長い期間成長しない国があっても、それはロジステック曲線の最終段階でなかなか普及率が飽和しないようなものだ。
人口の変化がたいした違いでなければ、世界経済もロジステック曲線形に成長すると言えそうだ。

人間の需要、欲望と言い換えてもいいが、それはある時点の科学技術の発展レベルで定まってくる。
個人個人の需要には違いがあっても、総体としての需要はだいたい定まってきて、その平均を取れば個人としての需要も決まる。
日本で鉄鋼の需要が1億トン、人口1億人とすれば、一人当たりだと1トン消費することになる。
これが一人当たりとしての現在の科学技術のもとでのマックスだとすれば、世界の需要が飽和したときの一人当たりの消費量は1トンという話だ。
例として鉄鋼を挙げたが、その他のありとあらゆる財・サービスに対して同じような理屈が適用され、現在の科学技術の元での消費量が定まる。
その消費量を貨幣に換算すれば、一人当たり所得となるわけだ。
世界経済はその一人当たり所得で飽和するロジステック曲線形に成長する。

ただ、世界経済に命題を拡張した場合、ある時点での技術レベルを基準にして消費量が飽和するかが問題となってくる。
覇権国の交替がロジステック曲線の1サイクルで起こることを前提とするならば、技術革新はその途中で停滞する必要がある。
しかし、技術史を見ても本当に停滞したかどうか言えるほど断層があるかと言うとよくわからない。
「大停滞」という本では、現在の技術革新のスピードが落ちていることについて幾つかの例を挙げて論証している。

ただ私にはあまり説得力があるように思えなかった。
過去の技術史を見ても、現在の技術の状況を見てもよくわからないのは、巨視的な変化を人間が把握するのが難しいことと技術革新が続いていてもその経済的な影響力が小さければ無視できることで説明できるような気がする。

ここでは技術について深く考えずに、技術革新は停滞するので「経済はロジステック曲線形に発展する」ことを前提として考えたい。
技術革新のスピードや影響力などの問題は別個検討する。
「経済はロジステック曲線形に発展する」という前提のもとで、経済成長はどのような様相を見せるか、国内政治・国際政治がどうなるかを考察していきたい。
その結果を歴史と検証することで命題の正しさを証明し、ひいては未来を予測するつもりだ。

次回は「経済はロジステック曲線形に発展する」とした場合の金利について考察する。
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経済はロジステック曲線形に成長する

2013.06.17 Mon

21:53:08

経済はロジステック曲線形に成長する。
何を言っているかわからない人が大部分だろうなので、まず文章の意味を説明する。

最初にロジステック曲線とは何だろうか。
ロジステック曲線というのは、下記のような曲線で、テレビやビデオのような新らしい分野の製品の普及率などは経験的にこのような曲線を描くことが実証されている。

ロジステック曲線

グラフでは横軸に時間をとり縦軸に普及率をとっているとしよう。
そうすると、曲線は最初の普及率は0だが時間とともに普及率が上昇して飽和することを示している。
ロジステック曲線の特徴というのは、最初の上昇速度はゆっくりだが、途中で急激に速度を速め、そして普及率の上限に近づくと最初と同じようにゆっくりした速度に戻ることだ。

新製品の普及率がこのような曲線を描く理由は、次のようなことで説明される。
最初の段階では何が主流になるかわからず技術の試行錯誤が続くので、投資金額はなかなか増えず、生産量が低いままとなる。
消費者もまた新製品の意義が理解できず、なかなか買わないのでそんなに消費量も増えない。
この二つが相まって最初の段階では普及率はゆっくりと上昇していく。
ある段階まで来ると、技術の標準化が進みどういう物を作ればいいか、どのくらいのコストがかかるかがはっきりとわかってくる。
消費者もほぼ全ての人間がその存在を知り、購入しようと考える人は計画をたてていく。
つまり作れば作るほど売れる状態になるので、投資金額が急増し、生産量も急激に増えて、一気に普及率は上昇していくことになる。
普及率が飽和に近づくと、まだ購入していない人たちは流行に簡単に左右されない人たちで急には飛びつかない。
そのため消費量が減るので普及率もゆっくりしていく。

「経済はロジステック曲線形に成長する」というのは、経済全体も新製品の普及率と同じような曲線を描いて成長するという命題だ。
経済の成長というのは人々の中に新製品が普及していく過程だと解釈できる。
何も所有していなかった人が、テレビ、自動車など今までなかった製品を購入して、より良い暮らしを楽しめるようになる。
これが成長ということだ。

個々の製品の開発時期と普及スピードは違うだろうが、普及率0の時の消費金額は0とし、普及率100%の時の消費金額をその製品の価格とすれば、ロジステック曲線のグラフは横軸に時間、縦軸にその時点での消費金額を取ったグラフへと変換できる。
当然ながら、耐用年数が複数年にわたるならその年数で分割する必要があるし、一年で何回も購入する物品ならばその分倍数を取る必要がある。
また、普及率が個人というより世帯で計る場合には、それも計算に入れなくてはならない。
製品の耐用年数が全て一年だと仮定すれば、普及率がその年の一人当たり消費金額になることは容易にわかるだろう。
その結果個々の製品のロジステック曲線を全て重ね合わせると、国家全体の一人当たりGDPの成長曲線へと変換できることになる。
個人一人一人に全ての製品が100%の普及率を達成したとすると、その時点での製品の合計した価格が一人当たりGDPと同じになるわけだ。
消費金額の中には、原材料分が輸入とか、製品自体が輸入となる場合もあるけれど、その場合にはそれに見合った分だけ輸出しているはずだから、GDPとしては変わりがない。
そして新製品の普及率の総和は同じようなロジステック曲線を描くことが容易に予想されよう。
新製品の数に限定があれば、最初と最後がゆっくりした成長の曲線になることは明らかだし、急激な成長期は金額の大きい消費財の普及時期によって決まってしまう。
実際に国ごとの経済成長率は、一人当たりGDPが低い時点では成長率も低く、経済成長する環境が整った時点で急激に成長し、そして先進国と同じようなレベルになると低下していく。
これは経済成長がロジステック曲線に近似していることを示している。

「経済はロジステック曲線形に成長する」という命題を国レベルで解釈して説明した。
この命題は世界全体に拡張しても同じように成り立つだろう。
特に新製品の開発、つまり技術革新の継続は世界全体で判断しなければならない。
次回は世界全体に拡張した場合の「経済はロジステック曲線形に成長する」という命題の意味を説明する。
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