異をとなえん |

修正版:日本の生産性が低い訳

2010.03.20 Sat

04:41:09

「日本の生産性が低い訳」については結論が間違っていた。
そこで間違っている理由と修正した結論を書く。

モデルとして次のようなものを考える。
A国とB国が存在する。
A国は100人、B国も100人の人口がいる。
A国は10人が米を作り、B国は10人が塩を作る。
両国は貿易をしあって、それで必要な物は足りているとする。
A国は米を作っている人以外はマンガを書いている。
いろいろな事情から、B国はそのマンガを読まない。
A国の米を作っている人の給料を年俸100円としよう。
利益とか設備投資とかはないとするので、200人分を作ったとすると、一人当たりの購入価格は100円*10人/200人=5円となる。
A国の残りのマンガを書いている人の年俸も100円で、90人全員がそうでA国は全員がそのマンガを買っている。
A国の一人当たりの購入価格は100円*90人/100人=90円となる。
B国は塩を作っている人以外は、働いていない。
国の保障によって暮している。
B国の塩を作っている人の年俸は100ドルで、200人に売っているから、一人当たりの購入価格は100ドル*10人/200人=5ドルとなる。
A国とB国の貿易関係は米と塩だけなので、500円分の米と500ドル分の塩を売るのでドル円の交換レートは1ドル1円である。
B国では、働いている人100ドルの年俸から90ドルを税金として取って、残りの人々に10ドルずつ配る。
B国は全員が5ドル分の塩と5ドル分の米で暮している。
A国も5円分の米と5円分の塩と90円分のマンガで暮している。
米と塩の価格がA国とB国の間で一致する必要はないのだが、一応これであてはまったので、モデルとしては合っていると思う。

私の前回の記事の予想は、貿易財の生産性は同じなのだから国民総生産も同じになるという考えであった。
けれども明らかに間違っていた。
A国の国民総生産は100人が100円分の生産物を上げているので、10000円になる。
B国の国民総生産は10人が100ドル分の生産物を上げているので、1000ドルになり、円換算すると1000円になる。
A国の国民総生産が圧倒的に多い。
一人当りに換算するとA国では100円になり、B国では10円でしかない。
前の記事を書いている時は為替レートの関係とかで調節されるようなイメージを描いていたのだが、勘違いしていた。
しかし、生産性という面ではA国は10000円分の生産を100人で生み出しているので、100円となる。
B国は1000円分の生産を10人で生み出しているので、100円となり、変わらない。
そのことから、生産性の違いが何から来るかわかった。
それを説明する。

上の例では、A国のマンガは全員に売れると考えていたが、平均して50人にしか売れないとしよう。
そうするとマンガ家の収入は1冊1円で50円になる。
米を作っている人は100冊全部買うことにしておく。
そうすると、A国の国民総生産は100円*10人+50円*90人=5500円となる。
一人当りに直して55円、生産性もこの場合全員が働いているので55円と同じになる。
でも、この場合B国の生産性は100円なので、B国の方が高くなる。
つまり、生産性は安い賃金で働いている人が多ければ安くなるのだ。

日本は欧米に比べて失業率が5%ぐらい低い。
これらの国々の労働需要に応じた賃金の分布が同じ形をしているとすると、日本はたぶん下方の方の安い賃金で働く労働者が5%分多いのだ。
賃金が安いということは、ほぼ確実に生産性が低いということで、結果として日本は欧米諸国に比べて生産性が低くなる。
実証研究だと、その賃金の低下分で生産性の低下分を説明しきれるか実行しないといけないのだろうけど、そのへんは省略する。

日本の生産性が低いのは、失業率が低いことを前提として、もう少し考察してみよう。
ヨーロッパの生産性がなぜ高いかは、やはり社会保障の影響によって失業率が高いのが原因だろう。
失業していても暮していける手当てが出ている国が多い。
だから、失業率が高くなる。
失業率が高いことで、生産性を低い仕事をする人はいなくなる。
日曜祝日の営業を規制するようなことも、当然失業率を高くしていると思う。
そして、その分国民のサービスは減少している。

アメリカの場合はヨーロッパと違って失業者の保障が十分ということはない。
それならば日本と同じになっていいはずだが、アメリカの生産性は高い。
それには、二つの理由が考えられる。
一つは、最底辺の仕事はアメリカでは非合法移民が担っている。
彼らの労働がきちんと統計に出ているかどうか怪しい。
その分、生産性の低下要因が減少することになる。
もう一つは、雇用の弾力性から来る失業率の高さだ。
アメリカでは、仕事がなくなった場合、解雇を簡単にする。
その結果失業率が高くなり、その分生産性が高くなる。
日本の場合、仕事がなくなっても解雇しない。
社内失業状態のことが多い。
そうすると統計の上では、なんらかの労働をしている理屈になり、その分生産性が低くなる。
日本の場合に生産性が低くなっている理由をもう一つ考えた。
妻の給与収入が103万円を超えると、税の控除が聞かなくなる。
そのために、103万円以上の仕事をしない人が多い。
そうすると生産性としては極端に低い人間が多くなるので、その分平均としての生産性が押し下げられる。

結論、日本の生産性が低いのは失業率が低いからであって、人間の有効活用という点から問題ではない。
このエントリーをはてなブックマークに追加
LINEで送る

日本の生産性が低い訳

2010.03.17 Wed

04:26:10

日本の生産性はG7の中では最下位をずっと走っている。
その理由を考えてみたが、仕事を分け合っているからではないだろうか。
先進国の貿易財の生産性がほぼ同じだとしたら、ある比率の人間が物作りに励むと、残りの人々はサービス業に従事することになる。
日米欧の三地域でその役割が微妙に違う。

日本では残りの人間をサービス業で全員働かそうとする。
だから、失業率が低く、その代わり一人当りの生産性は低くなる。
けれどもサービスとしての生産を国民は享受できる。
安全とか、気配りとか、そういうものだ。
サービス業自体は不安定なので、それに従事する人の失業の危険もあるし、残業も多くなりがちである。
サービスなんてものは捉え所がない。
そこで競争が激しければ、労働時間を多くして対応しがちとなる。
生産性も低くなる。

アメリカは競争が激しいので、サービス業の人たちも必死に働いている。
しかし、サービスの質の需要が少ない。
移民国家で気配りとかを理解できない。
移民国家なので英語をきちんと使えない人も多い。
高い品質は説明されないと理解できないだろうけど、その説明がわからない。
どうしても価格のみで判断してしまう。
結果日本だと吸収できる労働力が吸収できなくなる。
高い失業率が当たり前になる。
その代わり、その分だけ労働人口が減るので、生産性は高くなる。

ヨーロッパは日米とも違う。
日米は基本的に競争国家で失業すると生活が厳しくなる。
それに対して、ヨーロッパは福祉が充実していて、失業してもなんとか食えるようになっている。
そのため働かない人がけっこう多くなる。
アメリカと同じように、労働人口が減るので、生産性は高くなる。
ただ、アメリカと違って、制度的に競争を弱めているので、どうしてもサービスの質は低くなって、その分国民の利便性は低下する。
アメリカの場合は競争自体はあるのだから、高品質のサービスを享受したい人間はそれを手に入れているはずだ。

つまり、私が述べてきたのは、各国の国民総生産は貿易財の生産性で決まるということだ。
貿易財の生産性が同じだとすると、物的生産に従事する労働者の比率は同じになる。
たとえば、先進国では一人が十人分の物的生産をできるとしよう。
そうすると、ある国が10%以上の人間を物的生産に割り当てると、生産物はその国で必要な量を超えてしまう。
輸出をするしかないが、他の国も均衡しているからムリヤリ増やすことはできない。
ムリヤリ増やしても、その場合は輸出が多くなり、普通は為替相場が通貨高に向かい競争力が減退して輸出ができなくなる。
結局、だいたい貿易財の生産性に合わせた比率しか働くことができない。
もちろん、現実的には第一次産業、第二次産業の労働者の比率はかなり先進国でも違う。
ただ、この場合統計上の問題も大きい。
第二次産業に働いていると言っても、単純な労働者ではなくサービス的な仕事についている人も多い。
逆に第三次産業と言っても、世界で売れているソフトウェアなどは貿易財だから、むしろサービス業でないと言える。

なぜ日本の生産性がG7の中で最下位なのかを考えているうちに、こんな理論を考えついてしまった。
大雑把すぎて穴がありそうな気もするけれど、当たっている気もする。
このエントリーをはてなブックマークに追加
LINEで送る

鳩山首相はバカなの?

2010.03.16 Tue

04:19:13

最近の民主党はどうかと思う。
予算案を通せば支持率は上がるなんて、自民党が言ってきたことだろう。
その言葉を繰り返している。
麻生政権は金をばら撒いても支持率は回復しなかった。
子供手当てで金をばら撒いても、支持率は回復するわけがない。
子供手当て自体には賛成なので、今の状況はとても残念だ。
在日外国人で本国に子供がいたら、手当てを出すというのは、どうみてもおかしい。
世論の支持が得られるとは到底思えない。
別に民主党だって、そうしたいわけではないだろう。
それなのに、法律案の修正をしない。
柔軟性を失なっているとしか思えない。
あるいは、民意を理解できないのか?

一般的に、たとえ世論に逆らった決定だとしても、政治家が信念を持って実行するならば、それを支持する人々は多くいる。
けれども、信念を持たずに世論を無視するならば、致命傷になる。
信念を持たないのはいい。
政治家は人気商売だ。
食べていくためには、好き嫌いは言ってられない。
問題なのは、人気とりができないことだ。
子供手当ての問題しかり、高速道路の値下げ資金を使って建設促進など、私には人気を高める政策とは思えない。
固定票を取ろうとすればするほど、浮動票を失なう。
自民党の二の舞だ。

マニフェストの扱いもよくわからない。
民主党のマニフェストに期待して、民主党に得票をした人など、たいしているとは思えない。
それなのに、何故マニフェストに拘泥するのだろう。
高速道路の無料化など、世論調査では一貫して国民は否定的だ。
それなのに予算不足なのに拘る。
結局、鳩山首相は、信念がなく、民意も読み取れないので、とりあえず強力な主張をしている小沢幹事長の言うことを聞いているだけに見える。

そして、普天間基地問題がある。
私はたいした問題ではないと思っていた。
流れに身を任せておけばいいと。
けれども、鳩山首相は県外移転の主張をかなり強く言っている。
選挙戦の時の言葉を守りたがっている。
でも、指導力を発揮しているように見えない。
このままでは、5月末に決着できない場合責任を問われるだろう。
鳩山首相の意図がどうてあれ、辞職を求める意見が表面化してくる。
鳩山首相はいったいどうするつもりなのだろう。

小沢幹事長は辞任しろというのが多くの国民の意見だろう。
もっと前に小沢幹事長を解任していれば、支持率が下げ止まった可能性もあった。
今だと、たぶん遅いだろうけど。
人気取りのための政策もできないのはむごい。

民主党政権が混乱することは仕方がない。
けれども、その場合は人気取りの政策に走ってくれると思っていた。
逆に人気を落とす政策に走るとは、予想外だった。
こういう時に後悔しないよう、先の選挙では自民党に投票していたけど、それでもがっかり感がある。
このエントリーをはてなブックマークに追加
LINEで送る

アフリカの国々はなぜ発展しなかったのか(補足) - 武士の窮乏化とグローバリゼーション(その3)

2010.03.12 Fri

04:43:33

前回の話でちょっと言い残したことがあったので、補足しておく。
アフリカの発展しない理由の中で、世界の農業の生産性が急激に向上した事が、アフリカが発展しない理由だと述べた。
けれども、これはアフリカの人々が全然努力しなかったと言っている訳ではない。
アフリカの人々は努力したであろうし、たぶん、生産性も少しずつでも上昇していたと思う。
個人が同じ仕事をずっと続けていけば、生産性は向上するからだ。
この個人レベルでの生産性の向上はアフリカ諸国にもあったはずだ。
そして、もう少し上のレベルでも、ある程度あったのではないかと思う。
もう少し上のレベルというのは、現場監督とか農園主レベルだろうか。
少しでも多く儲けようと頭を使うのは、人間の本性だ。
けれども、そういった個人レベルでの生産性の向上では追いつかないほどの変化が発生したらどうにもならない。
戦後の農業の発展はそれほどのものだったと思う。

幾らか生産性が向上し、生産物が増えても、世界の他の国々がより多くを生産し、価格が下落すれば、収入は増えない。
努力しても、全然結果が上がらないことほど、人の気持ちを萎えさせるものはない。
貧しくなれば自棄にもなり、争いが起こる。
独立してまもない国々には、それを抑えこめるだけの安定性がない。
結局、多くの武力紛争が起き、人が死に、さらに苦しく貧乏になった。

現在のアフリカ諸国も成長しているのだかどうか、よくわからない状況にある。
しかし、アフリカ諸国にも高成長している国があるなどと言う話を時々見かける。
経済も下がる所まで下がれば、ある意味落ちようがなくなるのだから、経済が正常に成長できるようになるのも不思議ではない。
個人の努力によって、生活が向上するようになれば、社会も安定していくだろう。
このエントリーをはてなブックマークに追加
LINEで送る

「江戸のダイナミズム」感想

2010.03.11 Thu

03:56:43

「江戸のダイナミズム 古代と近代の架け橋」を読む。


西尾氏の江戸時代の思想史に関する本なのだけど、わかりづらい。
ヨーロッパ、清、日本の文献学を通して、日本の近世の思想史を書こうとしているのだが、何を主張したいのだかよく読み取れない。
はっきり言って失敗作。
一応、主題は最初に掲げているのだが、それを何回も記述せざるを得なくなるほど、最初は乗れていない。
たぶん、西尾氏も書きづらくて、何度も原点に立ち返って、原稿用紙の升目を埋めざるを得なかったのだ。
後半になってかなり乗れてくるのだが、やはりピントが合っていない。
あまりにも、主題が大きすぎて散慢になっている。

ただ、少しおもしろい部分もあった。
後半に入って本居宣長についての言及があるのだが、これが悪くない。
中国という先進国に対して、日本がどう対抗していくかという思想の実験になっている。
普遍性を拒否し、日本という特殊に拘泥する理論は私の興味ある所なので、参考になった。
日本には思想家はいないというのが私の考えだったのだが、本居宣長は違うのではないか。
なんか少し本居宣長について勉強したくなった。
このエントリーをはてなブックマークに追加
LINEで送る

アフリカの国々はなぜ発展しなかったのか - 武士の窮乏化とグローバリゼーション(その2)

2010.03.09 Tue

04:58:38

武士の窮乏化とグローバリゼーション」では、大雑把に言うと次のようなことを主張した。

経済成長とは、生産性の向上している部門から人々が流出し新しく生まれる産業に移動していくことだ。
生産性の向上している部門では、成長の不均衡によって必然的に格差が生まれる。
生産性が大きく向上している所は豊かになるけれど、生産性があまり向上しなければ停滞したままだ。
その部門の需要が飽和状態になれば、生産性が向上して、始めて今までの生活が維持できるようになる。
生産性が向上しなければ、生活水準自体が低下し始めて、最終的にはその部門から追い出されていく。
けれども、流出した人々が新しい産業に移動して、新しい需要を満たしていくことで経済は成長していく。

今回の記事では、国際貿易がある場合の経済成長について考えてみる。
そして、アフリカの国々がなぜ発展しなかったかの理由について意見を述べてみたい。

** 比較優位説

国際貿易があろうとなかろうと、経済成長が生産性の上昇している部門から人が移動していくことで起こることには変わりない。
成長するためには生産性の上昇が必要であり、どんな需要でも必ず飽和する以上人が部門を動いて移動することも当然である。
GNPが伸びても、一人当りのGNPが全然伸びないケースは本質とあまり変わりがないので無視しておく。
移動の自由が保障されている国家の中では、労働者の賃金は平準化していく。
それに対して、国家が存在している社会では、国家間の人に移動は簡単にはできない。
制度的な理由もあるし、言語や文化的に移動できない理由もある。
その結果、国ごとに生産性の格差が生まれる。
もちろん、生産性に最初から格差があるのが歴史的経緯だが、たとえ生産性が同じだったとしても、段々とずれていくことになる。

生産性に差があり、A国がB国に対して全ての面で生産性が上であっても、貿易することで相互に利益が得られるのが比較優位説である。
Wikipediaの比較優位を読むと、なぜ利益を得られるかは次のように書いてある。

引用開始

* 大国:ワイン1単位あたり労働者2人、または毛織物1単位あたり労働者6人で生産できる。
* 小国:ワイン1単位あたり労働者4人、または毛織物1単位あたり労働者8人で生産できる。

と仮定する。

この時、小国はどちらの商品においても1単位当たりの生産に多くの労働者を必要とするので大国より生産性が低い。逆に言えば大国は小国よりどちらも生産性が高いと言え、これを絶対優位と呼ぶ。この時点では一見すると小国の商品はどちらも大国に対して競争力を持たないように見える。しかし、比較優位の考えを持ち込むと小国はワイン生産において競争力を持っている。

このときの1単位当たりの機会費用は、

* 大国;ワイン1単位:毛織物1単位=1:3
* 小国;ワイン1単位:毛織物1単位=1:2

大国の市場での毛織物1単位の価格はワイン1単位の3倍で、小国では2倍だと分かる。すなわち、二国間での交換レートは、毛織物1単位に対し、ワイン2単位から3単位の間にあることになる。

また、生産費比率を見た時に、小国の方が毛織物を割安に作れる。これを比較優位と呼ぶ(逆に大国は毛織物生産において割高になり、これを比較劣位と呼ぶ)。小国は大国より毛織物の生産において機会費用が大国より低いので、毛織物を相対的に効率良く生産できるといえる。

次に関税がないこと(=自由貿易)を想定する。

現在、小国には200人の労働者がおり、100人がワインを、100人が毛織物を生産しているとする。生産状態は、ワイン:25,毛織物:12.5であり、これが現在の小国で消費できる商品数の限界である。

ここで小国が比較優位な毛織物産業に特化(200人全員が毛織物生産を行う)する。生産状態は、ワイン:0,毛織物:25となる。そして小国は増産した分の毛織物12.5単位を大国へ輸出し、ワインを輸入する。上述の交換レートを仮に毛織物1単位=ワイン2.6単位とすると、小国は32.5単位のワインを輸入でき、ワイン:32.5,毛織物:12.5と、特化する前に比べ毛織物の量は変わらず、7.5単位多いワインを手にすることができる。

同様に大国も600人労働者がいると仮定し、300人がワインを、300人が毛織物を生産しているとする。生産状態は、ワイン:150,毛織物:50である。ここでワインに特化し、375人がワインを、225人が毛織物を生産することとする。生産状態は、ワイン:187.5,毛織物:37.5となる。ここで先ほどの貿易を行うと、ワイン:155,毛織物:50となり、特化する前に比べ毛織物の量は変わらず5単位多いワインを手にすることができる。

ゆえに貿易を行えば両国に利益が生じる。
引用終了

比較優位説は静的に見れば、どう考えても成り立っている。
動的に見ても、つまり経済成長の前提で見ても、その一瞬一瞬を取れば成り立っているのだろうが、何に特化すべきかは、その国にとって大きな問題になる。
生産性の上昇しやすい先端産業に特化するのが有利だと考えやすいが、そうではない。
生産性の上昇する部門こそもっとも格差の拡大が激しいということは、国際貿易についても成り立つ。
その事を説明しよう。

たとえば、上記の例で大国の毛織物の生産性が1単位あたり労働者5人で生産できるに改善されたとしよう。
毛織物が生産性の上昇が高い部門であり、そして生産性の改善が大国に集中した例になる。
このときの1単位当たりの機会費用は、
* 大国;ワイン1単位:毛織物1単位=1:2.5
に変更され、二国間での交換レートは、毛織物1単位に対し、ワイン2単位から2.5単位の間に変更される。

最初の交換レートは毛織物1単位=ワイン2.6単位だったが、このレートでの交換はできない。
その結果、毛織物1単位=ワイン2.4単位の交換に変更されたとしよう。
そうすると、小国は毛織物12.5単位を大国に輸出して、ワイン12.5*2.4=30.0単位を輸入することになる。

貿易が両者にとって得であることは依然変わっていない。
小国は貿易をしない状態よりワイン5.0単位多く手にしている。
しかし、最初に貿易した時から手に入るワインの量は2.5単位減っている。
小国自体の生産性には何ら変わりがないのに貧しくなっているのだ。

** アフリカが発展しない理由

戦後の発展途上国の状況はまさにこのようなものだった。
最近話題になったアフリカの国々はなぜ発展しなかったかという最大の理由がこれだ。
第二次世界大戦前、植民地は農業中心のモノカルチャー型の産業構造を持っていた。
それが植民地から最大の利益を生む方法として、宗主国が押しつけたのだ。
そのような構造は、たぶん双方にとって利益を生んだことだろう。
比較優位説の教えるところだ。
そうしなければ、戦前植民地が発展していなかったことは間違いない。
だが、その構造は戦後大きな問題を起こした。

第二次世界大戦後農業は猛烈に生産性が向上していった。
アメリカは農業人口が総人口の40%ぐらいから5%以下に減少している。
生産物の量はあまり変わらないか、あるいは増えていると思うので、生産性は急激に上がったはずだ。
原因は機械化の進展、品種改良の効果、肥料の適切な供給などが上げられる。
緑の革命と呼ばれた、アジアでの耕地面積当たりの収穫量の増加も著しい。
明らかに戦後、農業の生産性は飛躍的に上昇したのだ。
また、ゴムや綿花、ジュートなどは、化学産業の発展によって代替品が生まれた。
合成ゴムやナイロンなどの合成繊維である。
こちらの生産性の向上も著しかった。

上で述べたように、生産性が激しく上昇している部門で生産性が伸びなければ絶対的にも貧しくなる。
農業の生産性の改善が急激に続き、なおかつ需要が飽和するならば、生産性の改善が遅い所は窮乏化する。
アフリカを中心とする発展途上国がその対象だった。
植民地時代、生産性の向上を動かすメカニズムは宗主国が担っていた。
独立後、その部分はほとんど失われたように思える。
生産性が上昇しなければ大きな問題ではなくとも、生産性が上昇し続ける時代においてはそれが致命傷になる。
その結果、アフリカ諸国は貧困にあえぐ事となった。

どうしたら良かったかは難しい。
農業にこだわらず工業化を進めるというのは、実際には困難だ。
農業に特化したのはそれなりの事情があったからで、その比較優位な産業を放棄して、新しい部門に移動して成果を上げるには、長い時間がかかる。
特に輸入代替を進めるために、保護政策を取れば生産性の向上はあまり期待できない。
インドやラテンアメリカの工業化が簡単に進まず、成長率が低かったのはそれが理由だ。

では、どうしようもないかと言うとそうでもない。
一番望ましい方法は農業の生産性を向上させることだ。
農業の負け組になるのではなく、勝ち組になればモノカルチャーの国でも成長は期待できる。
実際、ニュージーランドのような農業を中心とした国々でも、先進国並のGNPを維持している。
ニュージーランドは牧畜を中心に特化して生産性を上げ、国際競争に打ち勝ってきた。
だから、先進国としての地位を維持できた。
旧ローデシア、現在ジンバブエは、植民地に残った白人を中心として大規模農園で成長することができた。

しかし、発展途上国でそのメカニズムを発展させることは難しかった。
研究、教育、訓練あらゆる点で遅れていたと思うし、そもそも生産性を向上しなくては生き残れない事を理解できていたかも疑わしい。
結局、段々と生活水準を下げてゆくことで耐えていくしかなかった。

以上が私の考えるアフリカの発展しなかった理由である。
そして、ラテンアメリカや南アジアなどの農業主体の発展途上国の多くが発展できなかった理由でもある。
それらの国も先進国の農業の生産性の発展スピードに追い付けなかったのだ。
このエントリーをはてなブックマークに追加
LINEで送る

表現をする意味

2010.03.08 Mon

03:05:08

どうも書けないな。
書くことが喜びにならなくては書けないのだが、どうも喜びになっていない。
それが書けない原因だ。
どうしたら喜びにすることができるのか。
一つはそれを喜んでくれる人ができることだと思っている。
ただ、喜んでもらうと逆にプレッシャーになってしまって書けなくなる。
プレッシャーに弱い性格だ。
もう一つは気楽に書くことだろうか。
この文章はそんなに時間がかかっていない。
頭に浮んでいることをそのまま書いているからだ。
この流れをそのまま続けていけば、書けるはずということになる。
つまり、書くことを事前に決めておくのではなく、流れのままに書いておいて、後で編集する方法だな。
それはそれで問題はありそうだが、そうするしかないような気もする。

逆に書くことをはっきり決めて書く方法もいいのではないかという気がする。
たとえば、「武士の窮乏化とグローバリゼーション」の記事も続きを書きたいのだが、どうも書けなくなってしまう。
続きを書こうとすると、どうしても筆が止まってしまう。
不思議なものだ。
やはり文章を良くしたいとかの見栄が悪影響を及ぼすのだろうか?
成果物を完全にすることは又後にして、一応完成形を目指すことが必要ではないかと思っている。

こういう文章を書くようになると、小説やマンガなどを志望している人たちへのアドバイスとして、「まず完成させよ」というのがあるが、それが胸に響く。
私はまだ一つもきちんとした形で文章を作れていない気がする。
何がなんでも一つの文章として完成させたい。
そういう事を考えると、まず武士の窮乏化とグローバリゼーションを完成させたい。
その他にも主張しておきたいことはいろいろとある。
日本の国債発行で、どういう場合に本当に問題になるのか。
国債発行に問題がないという意見でもなく、問題があるという意見でもない、別の切口からの意見をまとめておきたい。
これはこれで意味があると思うのだが、ちょっと本筋から外れている。
やはり本筋を作ることが一番重要なはずだ。
本筋というのは自分にとって発表しておくのが大事な優先度みたいな意味だ。

けれども、本筋をきちんと書こうとすると、全然進まない。
記事の投稿がごそっと休みになる。
かと言って、毎日の投稿を休まないように努力すると、簡単なネタで潰してしまって、大きな流れの記事が書けない。
結局、どちらにしても、大きな流れの記事は書けないわけだ。

子供のころは集中力がある方だったのだが、年を取って散慢になってしまった。
かと言って、特効薬があるわけがない。
結局は日々の積み重ねにしかない。

そうすると最初に戻って、好きになるしかないのだが、自分は本当に文章を書くことが好きなのだろうか。
心の奥底を眺めてみると、少なくとも誰かに認められたい気持ちはある。
自分の生きてきた証しをこの世に残したい。
まだ、誰も語っていない思想を確立したい。
苦しまぎれにこんなことを考えた。
このエントリーをはてなブックマークに追加
LINEで送る