異をとなえん |

言語カテゴリーの新設

2009.06.20 Sat

20:27:01

言語についての話を最近続けて書いたので、興味が増してきた。
記事もけっこうあるので、、カテゴリーとして言語を作り下記の記事を移動した。

世界で一番優れた数の表現を持った言語は日本語
「日本語がブログの使用言語で最も使われている」って、本当?
英文は読みづらい
中国語の数表現
英語を学ぶ日本人は欧米に精神的に屈伏しているか?
韓国の漢字理解
英語と日本語の文章の違い
韓国新政権の英語教育改革
「ハングルの歴史」感想
「敬語で解く日本の平等・不平等」感想
日本語は亡びるのか?
日本語は亡びるのか?(その2)
日本語は亡びるのか?(その3)
「ひらがな論者」に反論する
ケータイのガラパゴス化は日本語の特異性が原因?
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ケータイのガラパゴス化は日本語の特異性が原因?

2009.06.19 Fri

03:20:37

私は日本の特異性は次の3点だと思っている。
一、平和国家であること
一、異民族に征服されたことがない階級がない社会
一、表音文字と表意文字を組み合わせた文字表記体系

世界のほとんどの国が、多くの基準の組み合わせによってしか、
その国の独自性がないのに対して、
三つもの基準で独自であるという日本はやはり変わっている国だ。
たとえば、アメリカならば、英語圏、キリスト教文化圏、共和制などが、
その国の独自性だろう。
ただ、これだとカナダやオーストラリアと区別ができない。
実際、アメリカ人とカナダ人の区別は簡単にできないと思う。
アメリカは世界一の軍事大国とか、
世界最古の民主主義国家とかを入れて個性を出すのだろうが、
それらが具体的にどんな個性になるのか難しい。
また、本質的な違いを問うならば、
英語とスペイン語が違うというのはどういう意味を持つのかとか、
キリスト教とイスラム教の違いはどうかとか、問う必要があるけれど、
そこまでいくと分類も難しいし、たぶん何かはあるのだですませるしかない。

そうすると、三つもの本質的な違いを持つ日本というのは、個性だけはある。
本質から派生する日本語圏とか、神道とかも差異に加えたらきりがない。
ただ、この差異も私は少しずつ減少していくと考えている。
一番目の平和国家というのは、「世界は日本化へ向かう」で主張しているように、
他の国も段々そうなってくる。
二番目の階級がない社会というのも、建前では世界の他の国もそうなっているはずだし、
現実も少しずつ移行しているように見える。
そうすると、日本の特異性として、ずっと残ると思われるのが、
三番目の表音表意文字を併用した表記体系だ。

よほどのことが起こらない限り、これは変わらない。
実際あり得るとしたら、世界の他の国が日本を支配して強制的に変更させるくらいだ。

こんなことを考えたのは、下記のケータイの記事を読んだからだ。

フルタッチ携帯になじめない日本ユーザーの「ガラパゴス」現象


 しかし、日本ではユーザー側がフルタッチパネルの機器を敬遠する傾向が強く(iPhoneユーザーの一部を除く)、日本で製品を投入するからにはどうしてもテンキーも載せざるを得ない状況にある。

 日本ではメールの利用が多いだけに、「文字入力はテンキー」という使い方が求められる。世界がフルタッチパネル化の流れを加速していくなか、日本メーカーはテンキーを併用するユーザーインターフェースの呪縛から逃れられないのだ。ユーザーの利便性を考えれば、テンキーは必須ともいえる仕様になっている。

 昨今、日本の携帯業界は「ガラパゴス」と言われているが、技術やサービスの面ではガラパゴスではないだろう。むしろ、日本が世界をリードしている状況であり、確実に世界が日本を追いかけている。

 しかし、ユーザーの「使い方」においてはガラパゴスになってしまっているのかもしれない。10年以上もテンキーでメールを打ち続けてきたことで、日本人は「テンキーで文字を打つ」という独自の進化を遂げ、逆に世界のトレンドであるタッチパネルに適応できなくなってしまったのだ。

 メール文化によって生態系が世界とは異なってしまったのかもしれない。日本でフルタッチパネルのケータイが一般に広く受け入れられる日は来るのだろうか。


日本ではメール文化が特異だから、
フルタッチパネルのケータイを使わない結論になっている。
日本の「ケータイメール」好きは特異例!? アジアの若者たちの携帯電話利用傾向をグラフ化してみる
を見てみると、確かに日本はケータイメールを他の国に比べて使っている。
しかし、他の国もテキストメッセージは使っている。
そうすると、ケータイメールとテキストメッセージの違いはなんなのだろうか。
私はどちらも使ったことがないので、その差異が具体的には、わからないが、
メールもテキストメッセージも、テキストを送信しているだけと思えば、
本質に変わりはないはずだ。

しかし、フルタッチパネルを日本のユーザーが拒否していることや、
携帯電話で見る日韓文化考
で見るように、電話として使う方が海外では多いと思えば、
やはりテキストを送信する需要自体が日本では他の国より大きいのだと思う。
フルタッチパネルは、
少量ならともかく大量のテキストを打込もうとしたら全然向いてないように見える。

それでは、なぜ日本でメール文化が普及したのか。
それは、表音表意文字を併用した表記体系の読みやすさが、
日本に大量の字を読む文化を育んだからだ。
読みやすければ需要も増え、その結果供給も増える。
そういう循環が生まれているのだと思う。

表音文字の文章というのは、読みにくい。
私が英語ネイティブでないから、読みにくいのではないかと疑うけれども、
「欧米のブログが盛んに見えないのは不思議ではない」
で分析したように、英語圏の人々もあまり文章を読むのは好きでないように思う。

日本語の文章が読み易いとするのならば、それは競争の上では有利な条件だ。
電波かも知れないが、日本という国は日本語の優位性で、
今後も世界の中で優位を保つ、
つまり一人当りGNPで上位を占めることが可能ではないかと期待している。
そして、日本の携帯電話がメール伝達の手段としてのケータイに発展し、
世界の携帯電話が会話の手段としての携帯電話に留まり続けるのならば、
二つの商品は相容れようがない。
ガラパゴスとか言うより、
別の商品だと言っていいのではないだろうか。

おまけ
この記事を書くために、「日本 ケータイ メール文化」で検索して面白いと思った記事。
本文とは関係ないが、リンクだけしておく。

iPhone 3Gは本当の黒船!世界のケータイ文化を日本に連れてくる【世界のモバイル】
デジタルペンその2 〜日本の携帯電話〜
携帯電話の使われ方:世界と異質な文化 [ブログ時評70]
2005年02月05日(土) グローバルマーケットと日本マーケットの乖離 〜携帯電話編
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「ひらがな論者」に反論する

2009.06.17 Wed

02:27:45

日本語をひらがなのみで書こうとするのは、
無謀に近いと思うので反論してみた。

シリコンバレーに「ひらがな論者」あらわる - Zopeジャンキー日記
経由にて、次の三つの記事を読む。

ひらがなせいかつ への いざない - ぼんやりと考えたこと
かな漢字変換 は かなかんじせんたく
読みにくいのは誰か

一番目がひらがなを使用する宣言で、
ひらがな表記をなぜするかの理由が二番目と三番目に書いてある。
理由は二つあり、
一つは、かな漢字変換のコストが大きく、負担になっていることと、
もう一つは、かなで書いてある文章ならば、
ひらがなしか読めない人でも読めることになっている。

一番目の理由である、かな漢字変換のコストは確かに大きい。
私も一時かな漢字変換せずに、下書きしたことがあるので、それは認める。
しかし、書く人間のコストが減らせたとしても、
読む人間のコストが大きくなるのでは、全体としてのコストは大きくなる。
たとえば、漢字かな交じり文で書くコストが100、
ひらがなだけで書くコストが50としよう。
それに対して、漢字かな混じり文で読むコストが1、
ひらがなだけの文章を読むコストが2とする。
そうすると、100人読んだ場合の全体コストは、
漢字かな混じり文の場合、100+1*100=200となる。
かなだけの文の場合、50+2*100=250だ。
個々の数値はもちろんいい加減だが、この場合100人読んだだけで、
全体のコストはかなだけの方が多くなる。
読む人間の数が、
千人、一万人と増えていけば全体のコストはかなだけの文章の方が、
ずっと高くなる。
文章というのは、一度公開してしまうと、思っていた以上に読まれるものだ。
たくさんの人に読んで欲しくないというのは、ブログを公開している以上、
自己矛盾に近い。
全体のコストが増してしまう技術が世界に受け入れられるわけがない。

さらに、私もかなだけで下書きするというのをやめてしまった。
記事を作成している最中に、自分の文章を何度も読み返すので、
そうするとかなだけの文章は読みにくすぎる。
勢いだけの文章ならいいが、何度も読み返す場合には、そうもいかない。
結局、自分の文章は自分が一番多く読むので、
最初から漢字かな混じり文に書いた方がいい。

二番目のひらがなだけしか読めない人にも読めるというのは、
もっともらしいけど、少し違うと思う。
まず、私の経験から言えば、小さくても漢字かな混じり文は読める。
小学五、六年のころ子母沢寛の小説「勝海舟」を読んだ。
この前、目を通したら全然読めなくて難渋したけど、その時は読めていた。
つまり、今の私にも読めないほど難しい漢字や単語を使っている文章なのだが、
子供の時は意味など深く考えずに読むので、読めてしまうのだ。
ひらがなだろうが、漢字だろうが、
子供が理解できないのは新しい概念そのものであって、
読むだけだったら適当に読みをあてればいいのだから、問題はない。
そうやって、読む力をつけていくのだ。

それでも、ひらがなだけしか読めない人の場合には、
「ひらがな・なびぃ」といったソフトもある。
漢字をひらがなに変換するソフトはあったような気がして、
今探してみつけたものだ。

ひらがなを漢字に変換するのは、文章の意味が理解できないと不可能だが、
漢字をひらがなに変換するのは、そんなに難しくない。
「市場」を「しじょう」と読むか、「いちば」と読むかのような問題はあるが、
些細な問題だろう。
どっちでも意味は、わかる。
これで、少なくとも、
ひらがなだけしか読めない人のために書く必要はないはずだ。

文章というのは、人に読まれるために書かれるものだ。
だから、特にブログのように、
不特定多数の人に読んでもらうのを目的とする文章では、
できるだけ手間をかけて読みやすくするべきだ。
かな漢字変換のコストが大きいという、自分のコストを減らる理由で、
読みにくくするのは、結局読む人を減らすことになる。
ひらがなだけで書く文章を、自分で読みやすいと思っているのでなければ、
わざわざひらがなだけで書く必要はない。
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日本語は亡びるのか?(その3)

2008.12.05 Fri

02:19:49

前回、
に続いてビジネス面での日本語普及について見ていく。

バブル以後、日本経済は相当なダメージを負い、
世界への進出は停滞してきた。
しかし、ようやく各業界も態勢をととのえ、世界に再進出する力を手に入れつつある。
今回の国際金融危機によって、海外の企業は大きく傷ついた。
その中で、現金を抱えている日本の企業は相対的に有利であり、
M&Aによって世界での規模を拡大する絶好の機会となっている。
最近の海外へのM&Aはその現われであり、今後もニュースが続いていくことだろう。

M&A:日本企業、海外へ攻勢 1〜10月前年比3.7倍


1〜10月で前年同期比約3.7倍の6兆6678億円に上り、過去最大の06年(8兆6089億円)に迫る水準になった。


日本企業が世界市場での地位を拡大することによって、
日本語は普及していくのではないか。

もっとも日本企業が海外企業を買収したとしても、社内の言語は英語だろう。
日本板硝子による英国の会社の買収では、社長が英国人になってしまった。
ある意味、英語が逆に普及するように見える。
しかし、本当にそうだろうか。
日本の会社であれば社長がどうであれ、
顧客、下請け、行政等と日本での外部とのやり取りは、日本語でやらざるをえない。
株主たちも日本人が多いだろう。
そのコミュニケーションのためには、日本語が有利に決まっている。
それを理解できる外国人は日本語を学ぶ。
つまり会社の上層部は日英両国語ができる人間が多くなる。
日本語が英語になり替わる状況は、あまり予想できないが、
日本資本に勤める会社員に日本語が広まる力にはなる。

日産自動車は逆にフランス資本によって買収された。
その結果、社内では英語が公用語だ。
読売新聞の報道
によると、
「日産自動車も社内文書は原則英語で、外国人が1人でも参加する会議は英語で進む。」
ということだ。
しかし、日本国内の公文書、契約書は日本語で作らざるを得ない。
そうすると、会社間のやり取りでメールが飛びかっていれば、
それを引用する時、その部分は日本語になってしまう。
結局、純然たる社内文書だけしか英語にならない。
実質英語しか読めない人間に、
必要とする文書を英訳しているだけでしかないような気がする。
そんな風に考えていくと、実質文盲の人間が管理職をやっているのがおかしい話になる。

日本企業でも他所の国の子会社に行って、言語を知らずに働くことはある。
それには技術のような別のはっきりした長所が必要だ。
それがない状況では、子会社の運営があまりうまくいくとは思えない。
日産の場合は再建のために蛮勇を振るう能力が必要とされ、
ゴーン社長はそれをうまくやった。
しかし、再建が一段落した状況でも、それでいいのだろうか。

多国籍企業の運営は難しい。
日産自動車のように、フランス資本の会社の日本企業は、
親会社はフランス語環境で、子会社は日本語環境だ。
でも、日仏の言語が使える人間は少いので、英語が共通語になる。
日本の会社では日英両国語が使える人間が上層部となり、
フランスの会社の子会社をコントロールする部分は英仏両国語が使える。
この場合、日英両国語しか使えない社員は、やはり本社に移動しての昇進は難しいと思う。
もっとも、日産自動車はそんなこと考えてなさそうだ。
多国籍企業としての一体性より、個々の会社がくっついているようなものか。
英語が共通語というのも、フランス企業の子会社というより、
アメリカ企業の親会社としての立場かもしれない。

日本の場合もドイツやフランスに子会社を持てば、同じような問題が起こる。
しかし、日本の場合はフランスに行けばフランス語を勉強すると思うし、
ドイツに行けばドイツ語を勉強すると思うのは身びいきなのだろうか。
そんな風に考えていくと、親会社の言葉を共通語としてしまうのが、
多国籍企業全体としては、一番効率を高くできる。

現在日本企業が短期的に英語を公用語とするのは納得できるが、
それはそれで問題だ。
外国人社員には、はっきりしない内部のカーネルが存在するように見えないだろうか。
子会社の社内の運営は、その国の言語であったとしても、
結局長期的には、会社全体の共通語は、親会社の国語の統一したほうがすっきりする。

多国籍企業の社内言語をどうするかに、話題が拡散してしまったが、
どちらにしても、日本企業が世界に進出していけば、日本語の普及にはつながる。
日本に進出している力より、日本から出ていく力の方が強ければ、
日本語の勢力は大きくなるだろう。

さらに続けて、科学技術の面を見よう。

この項続く。
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日本語は亡びるのか?(その2)

2008.12.04 Thu

01:17:28

前回、
日本語は読みやすい言語なのだがら、
英語よりテキスト言語としては、むしろ好まれると主張した。
しかし、今減りつつある日本人だけが、
日本語を読み書きするのならば、将来はおぼつかない。
日本以外の国に広まる可能性を考えてみよう。

耳にタコができるくらいによく聞く、
アニメ、マンガを始めとした「JAPAN COOL」と呼ばれる現象によって、
日本文化は広まりつつある。
私の理解している範囲では、世界で流れている文化の中で、
もっとも強い流れだ。
ハリウッドの映画のように、今でもアメリカ文化は、
世界に強い影響力を持っている。
しかし、新しいなにかという感じではない。
娯楽としての一分野に過ぎないように見える。
あるいは、言語を学ぶ強いきっかけにならない文化だ。
それに対して日本語は違う。

日本文化は現在世界で一番強いと述べたが、
それは日本で放送されたアニメ番組が、ほとんど一週間以内に、
字幕がつけれらて配布されていることからも、うかがえる。
こんなことができている映像は他にあるのだろうか。
日本で英語のテレビ番組に字幕をつけている組織など聞いたことがない。
そして、日本のアニメを翻訳してい人たちは、
ユーザーから多くの感謝の言葉を受け取っている。
日本人からすると、オリジナルを作りだしている人間の感謝が少ないのに、
盗みをしている人間たちが感謝されるのは釈然としないが、
翻訳者たちのモチベーションにはなっている。
そのため、日本語を勉強したがっている人間は多いのだ。
アニメから始まった、この流れはマンガや小説にも広がっている。
NARUTOやワンピースを始めとしたマンガも週ベースで一瞬の内に翻訳されている。
膨大な需要が日本語を学ぶ学習者を作りだしているのだ。

その結果、英語の掲示板を流れている、なんだか変というか面白い現象がある。
日本人にとっては、ある意味慣れ親しんでいるものだが、
オリジナルに近いほどありがたがられている。
無条件で日本を良しとする現象があるのだ。
たとえば、SEVEN SEASによる英語のマンガ出版では、右開きで本を出した。
ウェブコミックみたいだけど、実物を見ていないので良くわからない。
英語の本にもかかわらず、マンガが右開きであるから、それを真似ようとしているのだ。
日本人から見るとそれはおかしいように見えるが、
右開きの方がオリジナルに近いという意識は、それを現実化する。

このような日本文化が世界に広まっている現象は、しょせん小さな分野であって、
大きな流れにはならないという意見もありそうだ。
私もそういう疑問は持っている。
しかし、本当にそうだろうか。

バブル崩壊以後、日本語を勉強している人は減っているという話も聞く。
商売にならなくなったので、ビジネスマンたちが、
あるいは日本語の資格を持っていれば、就職に有利だと考えた学生だちが、
日本語を勉強しなくなったのだ。
その替わり中国語を勉強している。

中国は中国語普及のための機関として、孔子学院を作った。
世界にその学校を広げて、中国語を普及させようと努力している。
しかし、ビジネス以外の用途で勉強している人がいるのだろうか。
中国は商売以外で人を引きつける要素がほとんどない。
現代中国文化は何があるだろうか。
パクリばっかりだ。
真の意味で、相手に学ぶ、敬意を払う気持ちがない学習で、
言語がそれほど普及するわけがない。

今まさに読みたいものがある。
そのために勉強している人間の熱意は、はかりしれない。
幕末明治の日本人が、外国語を必死になって勉強したのは、
言語そのものよりも、コミュニケーションを取る道具として、新しい技術を学ぶ道具として、
新しい文化を学ぶ道具として必要だったからだ。
その熱意が、外国語をうまくし、日本自体を変革していった。
現在の日本人の英語が下手なのは、その熱意が低くなっているからないすぎない。
ビジネス目的の言語勉強は、ある意味広がりを持たない。
他の人が学ぶほど、自分の能力の価値が下がるからだ。

アニメ、マンガを始めとした日本語の学習は、その内部に非常に強い情熱を持っている。
人数が少いとしても、その熱い思いが力を持ち、世界を変えていく。
文化の面で日本語は世界に普及しつつあるのだ。

次にビジネスの面の普及について考えてみよう。

この項続く。

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日本語は亡びるのか?

2008.12.03 Wed

03:10:31

梅田氏が「日本語が亡びるとき」の書評
をして以来、ネット上でそれに関する記事が氾濫している。
私も興味深く眺めているのだが、
どうも日本語が亡びるというか、すたれていくのは当然の前提として、
議論が展開しているように見える。
それに疑問を呈したい。

「日本語が亡びるとき」については書店になかったので、
読まずに記事を書くつもりだったのだが、書店に入って、ようやくざっと見た。
実に読みにくい本だった。
新しい概念の言葉を記号でくくっているのが、思考を邪魔するらしい。
それでも、ネットの書評を見ていてわからないことが、一つわかった。

英語が普遍語になっていく理由として、次のことを挙げている。
インターネット上で知の図書館ができ、
その結果読むに値する文章を探す人はみんな英語の文章を探すようになってしまい、
他の言語の本を読まなくなるというものだ。
本当だろうか。
私は疑問だ。
そういう理由だったら、むしろ逆に日本語の方が普及しそうな気がする。

英語と日本語で同じ内容の文章があったら、英語がペラペラの日本人でも、
日本語の方を読むのではないだろうか。
オリジナルが英語で正確に内容を把握したい場合でも、
その場合、まず日本語の文章で当たりをつけて、それから大事な部分を読むと思う。
私には英語と日本語の文章で英語の方が読みやすい人がいるとは到底思えない。

私の英語体験からもそれは言える。
英語はようやく読めるようになってきた。
辞書なしでも、なんとか意味が取れる。
読めない単語はたくさんあるが、前後から意味が理解できるそんなレベルだ。
しかし、未だに早く読めるようにならない。
全然見通しがきかず、一字一字理解していかないとダメなのだ。
不思議だなと思っていたが、どうやら英語の特徴だということがわかってきた。

NHKスペシャルの「病の起源」によると、
識字障害は文字を一つ一つ認識できるが、単語を音に変換する部分がおかしい。
つまり、人間は文章を読む時、必ず心の中では声に出しているらしい。
これは納得できる。
そして、英語は識字障害が日本語より多い。
音としてすべてを把握しなければいけないためだと思われる。
表音文字の特徴だろう。
つまり、文章を順番に理解しなくてはならないのだ。
それに対して日本語では、漢字を絵として理解できる部分がある。
それが、識字障害を少なくし、文章を把握するスピードを早くしている。
日本語は読みやすい言語なのだ。

これを裏付けるものとして、
ブログのエントリー数で、日本語と英語でほとんど変わらない状況
がある。
インターネットユーザーの数の違いを考えると、驚異的とも言える。
なぜだろうか。
日本人の日記好きとか、宣伝ブログだからという話もあるが、
それは英語でも同じだ。
より本質的な違いは、
英語のユーザーは読むのが苦手だからではないか。

有名な経済学者のブログでも、日本でしか知られていない経済学者のブログよりアクセス数が少ない。

経済学・反経済学論壇系アルファブロガーになる方法(試行版)

リンク先ではいろいろ理由をつけているが、
むしろ、単純に英語人がブログを読まないからではないだろうか。

これはコミックとアニメーションの市場にもいえる。
日本語ではマンガとアニメの市場ではマンガの市場の方が大きい。
アメリカではアニメーションの市場の方がコミックよりずっと大きいので、
日本と比べてDVDの価格がマンガ本の価格より相対的に安くなる。
これらを考え合わせると、英語は読むより、聞く方が楽なのだ。

日本語が英語より読むのに向いている言語ならば、
日本語の方がテキストを集めた知の図書館においては、より好まれる言語になるのではないだろうか。
少くとも日本人においてはそうだろう。

この項続く

内容が似ている記事を下記にも書いていた。
参考のために挙げておく。
英文は読みづらい
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「敬語で解く日本の平等・不平等」感想

2008.07.16 Wed

00:50:57

浅田秀子著「敬語で解く日本の平等・不平等」を読む。
敬語を通して日本人の階級意識を解いている。

目次は下記の通り。

第1章 欧米や前近代の中国では上位者と下位者は断絶していた
―お米がないならお肉のお粥を食べれば?
敬語と敬語はどういう関係にあるのか
中国人は死んだら終わりと考える
中国語の敬語は自己品位語から礼儀語へと変わった
神の前においてすべての人は平等である
一神教世界において現世は不平等である
欧米や前近代の中国では上下の交流はありえなかった
欧米語には階級確認の言葉と礼儀語がある
欧米や前近代の中国では上下の断絶がコミュニケーションの不在を生んだ

第2章 日本では有史以来幕末に至るまで上下の交流があった
―お代官様がおやめにならないかぎり、われわれは未来永劫村へはもどりません
日本人の平等意識は不平等意識とイコールである
日本人は先祖とのつながりを重視する
日本人は死ねばホトケになる
日本では神の系譜と人の系譜がつながっている
倭建命(やまとたけるのみこと)の歌に答えたのは火焚きの老人であった
民の暮らしのためなら雨漏りもいとわない
天皇は大工の死罪を許したばかりか処刑を懸命に止めた
天皇から貧民・兵士・罪人まで
民の苦しみと救いたい
『古今集』は貴族だけの歌集ではない
召使の少女に恋した貴公子の話
一夫多妻制は上流と下層の血をかきまぜる効果があった
平安時代の貴族と庶民は十分に情報を交換し合っていた
傀儡女(くぐつめ)に今様(いまよう)を習った後白河院
地頭と代官と百姓たちのかけひき
主君と家来の化かし合い
下剋上の世にも独裁者は身分を超越する場をつくった
地上にパラダイスを現出させた高山右近
江戸時代の農民や町人は武士に抑圧されていたか
老中の命令を引っ込めさせた銭湯組合
弥次さん喜多さんは実は親分子分であった
日本社会は有史以来幕末まで上下の対等な交流が連綿と続いてきた

第3章 敬語は上位者と下位者をつなぐかけがえのない橋だった
―羽をください、若王子の神様
日本人が対等に扱えたのは「日本語人」だけであった
「ソト=自然」は恐ろしく尊いものである
日本人は遠いところのものにどうやって訴えを伝えるか
ウタフと丁重になる
ウチ・ソト認識から上下認識へ
ウタが歌になったとき敬語が生まれた
なぜ敬語を使うのか
敬語を使えば何でも言える
敬語を使うことは上位者・下位者の身分・階級を遵守すること
階級遵守語からエチケットのための礼儀語へ

終章 敬語が日本の行く末を決める
―すみません、その傘を向こうへやっていただけませんか
なぜ明治から終戦までの時代は下位者が何も言えなくなったか
田中正造の挫折は伝統的な階級秩序の崩壊を象徴した
日本人の礼儀語不足
日本の未来はわれわれの使う敬語にかかっている

第1章は、中国語や欧米語での上位者と下位者のコミュニケーションにおいて、
使われる言葉の状況について説明する。
通常、上位者と下位者のコミュニケーションは断絶している。
コミュニケーションが存在する場合においても、
敬語のような形式化されたものではなく、
個別な状況によって、言葉を使わねばならないとする。
なかなか面白いのだが、具体的な言葉の例が少いので、本当らしさに疑問を感じる。
むしろ、例がない上位者と下位者の言葉が違っていたので、
コミュニケーションがなかったという方に正しさを感じる。

第2章は、日本語における上位者と下位者のコミュニケーションにおいて、
使われる言葉の説明だ。
この章が一番長くて、かつ一番楽しめた。
日本人の間では敬語を使う事によって、上位と下位の隔てをなくして、
平等につきあつ事ができると、主張している。
ただ、作者は「上流階級と下層階級の厳然とした区別が存在し」(p157)と、
述べているが、私には上流階級と下層階級にそれほど差がなかったから、
敬語が発達し、コミュニケーションできたように思える。

第3章は、敬語の起源論だ。
評価不能である。
神への呼掛けが敬語の始まりとかいう話だが、
もっともらしいけど、こんなこと論証可能なのかという感じだ。

終章は、敬語の不在を嘆いている。
明治維新から終戦まで、
上位者と下位者の間にコミュニケーションの断絶が起こったとする。
これは、上位者が成り上がりだったからと説明するが、
あまり説得力はない。
敬語の話も出てこない。
西洋の侵略に対応するのが、最優先事項になったから、
下位者の言い分を聞けなくなっただけだ。

総じて、敬語によって平等が達成されたというニュアンスなのだが、
逆に平等だからこそ、敬語が生まれたと思う。

本の中(p217)で日本人が欧米人の秘書に"Type this."と言って、
機嫌を悪くさせる話がある。
"please"とか"would you……"とか言わなくてはいけないそうだが、
語彙が乏しいのだから、ある意味仕方がない。
自分の意思をまず伝える事で精一杯なのだ。
下位者だって、ご機嫌を取ろうと丁寧に言っても始まらない。
丁寧に言ったら言葉がわからないので、最わかりやすく言えと、
怒鳴られてしまう。
こんな状況で敬語が生まれる訳がない。

欧米や中国では征服王朝の歴史が長い。
そうすると言葉がわからないので、対話もへったくれもない。
敬語はできないことになる。

日本語の敬語は上位下位の構造がある中で、
できるだけ平等にコミュニケーションを取るために生まれたという話には、
納得できた。

本のメインではないが、
キリスト教の一夫一妻制が階級を固定してしまうという話は感心した。
夫と妻が同一階級の場合、血が拡散しないので、いつまでも離れたままなのだ。
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