異をとなえん |

桜を愛でるのは日本人だけか?

2010.04.06 Tue

03:56:17

twitterで次の文章が流れてきて、少し考えさせられた。

引用開始

桜を愛でつつ「日本人に生まれてよかった」とのたまう方をみかけるが、それって人種差別、民族差別というものですよ。
引用終了

花を見て綺麗と感じる気持ちは、ほとんど全ての人間が持っているだろう。
でも花見みたいな習慣は日本以外にあるのだろうか?
ワシントンでは日本が贈った桜の木を見るための祭がある。
ただ、お酒とかは飲めないらしい。
公共の場での飲酒が禁止されているからだ。
そうすると、お酒を飲みながら、回りの人々と歓談するのとはちょっと違う気がする。

また、日本の花見は桜の散るのを楽しむ気分がある。
これは単純に桜を見れば浮ぶ感情なのだろうか。
桜の散り際の美しさを称賛してきた、今までの伝統がそういう感情を作り出してきたのではないだろうか?
その他にも、桜の美を歌った数々の和歌がある。
桜を見れば、そういう和歌を思い出す日本人も多いはずだ。
たぶん、桜を見て和歌を思い出す外国人は少ない。
「英語で読む万葉集」を書いたリービ英雄ぐらいなものではないか。
ああ、ドナルト・キーンもいるな。

結局、桜を愛でるといっても、それは一つの技能だと思う。
絵画や音楽を鑑賞するにしても、それなりの訓練がなくては難しい。
私には絵画や音楽はよくわからないが、アニメやマンガならわかる。
アニメやマンガを楽しむにしても、それは伝統というか、元ネタがわからないと楽しめない部分があるのだ。

桜を愛でつつ「日本人に生まれてよかった」としゃべるのは、そういう伝統に裏打ちされた共同体に参加していることの歓びから出たものかもしれない。
そうでないかもしれない。
もしかしたら、民族差別感情から韓国人は可哀相だなと思って、「日本人に生まれてよかった」としゃべっているのかもしれない。
冗談でなく、桜が咲く季節になると、ある程度の韓国人が、日本の桜の起源は韓国なのに世界はそれを評価しないと、本当に怒っている。
桜を愛でる習慣がなくとも、他に楽しいことはいっぱいある。
だから、他の国の人をそれで可哀相とは思わない。
しかし、桜を見て起源詐称だと怒り出す韓国人は本当に哀れを感じる。
あんなにきれいなのに、そんなことしか考えられないのは悲しい。

話がずれてしまった。
要は、「日本人に生まれてよかった」が共同体に参加している歓びの表明ならば、それは正しいのではないだろうか?
それ以外にどういう言い方があるのだろうか。
さらに、危ない方向に話を振ってみる。
人種差別、民族差別は無条件に批難されるべきことなのだろうか?

自己の遺伝子の保存、拡散を目指すのは生命の本能である。
その能力を持った生命だけが、今まで生き残ってこれたのだ。
だから、親は無条件に子を愛おしく思う。
家族や血のつながりのある人間を大切にする。
それは普通のことだ。
その感情は血の濃さに応じて広がっていくだろう。
もっとも、これは最近の日本人は意識してない気がする。
家族より広くなると、共同体や理念としての民族に親しみを感じているようだ。
国民国家という概念は、基本的にこういう感情に基盤を持っている。
幻想であり、無理矢理に作り出している部分もあるのだが、コアの部分はそうであるはずだ。
そして、国家は何よりも国民の安全を守ることを第一の義務としているのだから、他国民を差別するのは当然である。
実際国民は国家の安全のために、いろいろな義務を負っている。

では、どこから民族差別、人種差別批判は来るのだろうか。
まず、国民国家を無理矢理作り出している部分である。
多くの国家は、その形成の歴史的経緯から国内でのメジャーとなる民族集団以外の民族を抱え込んでいる。
国民国家という理念は、国民全てを同一視する理念だから、そうできない集団が存在するのは困る。
だから、民族差別を批判して、国民としての一体性を強調する。
しかし、これは本質的に国民という民族を作り出す方向に他ならない。
逆に言うと、国籍が違えば区別は当然という考えだ。
世界の国家はこの方向に動いていると思う。
生命の本能と社会の安定を維持するにはこれしかないからだ。

しかし、そう単純に行かない国家もある。
アメリカだ。
アメリカは、建国の理念として迫害から逃れた人々の逃げ場所だった。
世界のあらゆる場所から自由を求めて来た人々を受け入れてきた。
アメリカは民主主義というイデオロギーを国の根本に据えた国家なのだ。
だから、実質的にはWASPを中心とした民族社会であっても、それを表にしないでやってきた。
WASPが社会の大多数を占めていたので、民族差別、人種差別を禁止する建前が守られてきた。
しかし、アメリカへの移民はさらに増えている。
WASPの多数派が崩壊するのは時間の問題になりつつある。
その中で建前が維持できなくなっている。

アメリカの国民保険制度ができないのは、人種差別からだとクルーグマンが書いていた。
これは正しいと思う。
アメリカの豊かに暮している白人は、黒人やヒスパニックに対してその健康を保障するための共同体意識を持っていない。
とはいえ、これは当然だと思う。
無条件に移民を受け入れることは、イデオロギーとしてはできても、その生活を保障することは別問題だ。
自由は保障するけれども、生活は保障しないのが、アメリカのイデオロギーと共同体の感情を妥協させる道だった。
国民の生活を保障するには、移民を制限して、一つの共同体になる必要がある。
イデオロギー国家から国民国家に脱皮する必要がある。
しかし、アメリカにとってイデオロギー国家を否定するのは難しい。
理念を大事にする人々からは、強烈な反発があるだろう。

それはオバマの保険改革に見ることができる。
アメリカでは中産階級の白人が猛烈に反発しているようだ。
今まで保険改革が通らなかったのは、貧乏人を共同体の一部として見ることを拒否してきたからだ。
それが通ったのは、正に数が変わりつつあるからだ。
しかし、共同体としての感情が身につかなければ、反発は逆に増す。
前々から述べているように、民主党と共和党の亀裂、金持ちと貧乏人の亀裂がアメリカではどんどん膨らんでいる。
アメリカという国自体が分裂の危険をはらんでいるように思う。

なんか、論旨がばらばらになってしまった。
アメリカの国家としての特殊性を書くのが本題のつもりなのだが、桜を愛でるから持っていくのが強引だったか。
ただ、どう直したらいいかわからないので、このままリリースする。

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