異をとなえん |

文章を書く苦しさ

2009.12.04 Fri

02:45:45

文章を書いていると苦しいことがある。
何が苦しいのかよくわからない。
無から有を生み出す苦しみなのだろうか。
頭が空っぽになっている所から、何かを引きずり出してくるような感じだ。
不思議なのは、そうでない時もあることだ。
文章が頭からすらすらと引き出せて、何も考える必要がない。
今こう書いている文章も構成も何も考えていないのに、文章が書ける。
いや、逆に何も考えていないからこそ、文章が書けるのかもしれない。
思考と文章の書く速度が一致しているので、考えていることがそのまま文章に出せる。
この境地に立ちいたれば、頭を使う必要がないわけだ。
しかし、実際の文章ではそれではに冗長になってしまう嫌いがありそうだ。
でも、それは推敲で直せばいいという考え方もある。

そんなことを考えていると、文章を書く苦しさというのは、頭が書く対象に集中していないのに、それにムリヤリ頭を引きずりこもうとしている苦しさなのかもしれない。
頭は別の事を考えたがっているのに、興味を持てないことに対して頭を集中させようとする。
それが苦しみにつながる。
けれども、ある程度の苦しみがなければ文章は完成しないとも思う。
興味がつながっている部分だけでは、みんな尻切れ蜻蛉になってしまう。
ある程度完成した場合、その完成した部分をまとめるためだけにも、苦しみに耐えて文章を書く必要がある。

でもそれは程度問題だな。
全然内容がないのに、苦しんでも意味はない。
ぶつ切りの内容が、ずらずら並ぶだけだ。
それでは意味がない。

文章を書こうと志した人たちは、みんなそんなことを考えたのだろうか。
筒井康隆がアイディアがどんどん浮んできて、それをみんな作品にしていたら、死んでしまうなどともらしていたが、その気分が最近わかるような気がしてきた。

対象に集中することによって、思考と文章書きが一致する、それが一つの理想だ。
そう考えると、今の私は散慢になっていると言える。
本来なら、「世界は日本化へ向かう」の本作成作業をしているはずなのに、そこに手がつかないので逃避して文章の書き方の苦しさについて書いているのだから。
それでは、どうやって対象に精神を集中させることができるのか。
難しい話だ。

やはり、書いた文章を何度も読み返して、再度その状態に心理を戻すしかないのかもしれない。
そうやって始めて文章が書けるようになる。

私は布団の中ではかなり自由に思考できる。
いろいろと深い所まで考えることができる。
それがなぜが、パソコンの前に座ると書けなくなってしまう。
どうも書こうとすると、どこかで引掛ってしまうのだ。
理由はいま一つわからない。

ただ、考えていることを絞り出していけば、最後はすらすら書けるようになるのではないか、今はそんなことを考えている。
少くとも現在はすらすら書けているわけだし。

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コメント

302

この境地に立ちいたれば、頭を使う必要がないわけだ。
しかし、実際の文章ではそれではに冗長になってしまう嫌いがありそうだ。
でも、それは推敲で直せばいいという考え方もある。

303 Re; この境地に立ちいたれば

clovertingさん、コメントありがとうございます。

私の文章をコピーしたのは、叱咤激励の意味なのでしょうか。
そう受け止めて記事は投稿したけれど、内容がなんか繰り返しになってしまった。
でもブログというのは、同じ内容を繰り返すことで洗練していけばそれでいいような気もする。
きちんとした文章は後でまとめればいい。
そんな風なことを考えています。

それでは。

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