異をとなえん |

指導者の能力について - 平和型国家論(その8)

2012.09.25 Tue

21:26:42

指導者の能力とか特徴について書く。
安全保障の危機にある状況では、指導者に有能な人物が求められる。
指導者には戦争に勝てる能力が必要だからだ。
それに対して、安全保障において危機が迫っていない場合、指導者には能力よりも公正さが重要になる。

戦争というものは人間の全能力を活用して勝利を求めるべきゲームである。
そして個人の能力によって歴史が動く可能性が一番高くなる時だ。
ポエニ戦役においてはハンニバルとスキピオのザマの戦いの結果によって、戦争の勝敗が決まり、カルタゴという国の運命を決した。
もっともローマはこれまでハンニバルにずいぶん負けているので、この戦いで負けたからといって戦争に負けたかはわからない。
しかしザマの戦いでハンニバルが勝利していれば、その後の状況がずいぶん変わっていた可能性はあるように思われる。

つまり、一つの決戦によって戦争の勝敗が決まり、その決戦の勝敗が指揮官の能力で決まるならば、指揮官をどう選ぶかは国家の運命にとって決定的に重要な選択となる。
戦争型国家においては指導者の選択が最重要視されると言っていい。

指導者の能力は簡単には述べにくいけれども、基本的には頭の良さだ。
戦争というゲームはルールはないも同然だが、目標は大体はっきりしている。
だから戦争に勝てるかどうかという物差しで人間の価値を図ることができる。
具体的には頭脳の処理速度とか、入出力インターフェイスの機能だ。

歴史を見ると常勝将軍みたいな人間がいる。
ナポレオンのような人物だ。
彼らが戦争や戦闘に勝てたのは、偶然ではなくて、頭の良さによってベストの戦い方を見つけ出したからだ。
その能力というのは単純な筆記テストで判別できるようなものではないが、たぶん能力のある人には能力のある人がわかるのだろう。
能力のある人が能力のある人を選抜することによって、指導者の基礎能力を持つ人を見つけ出せる。
最終的な選択は民主主義国では選挙によるなど、また他の要素があるが、能力を持つ人を見つけ出そうというのは変わっていない。

それに対して平和型国家では違う。
下記は勝海舟の有名な挿話である。

引用開始

おれが始めてアメリカに行って帰朝した時に御老中から「そちは一種の眼光を具えた人物であるから、定めて異国へ渡りてから、何か目をつけたことがあろう。つまびらかに言上せよ」とのことであった。そこでおれは「人間のすることは、古今東西同じもので、アメリカとて別にかわったことはありません」と返答した。ところが「さようではあるまい。何かかわったことがあるだろう」といって再三再四問われるから、おれも「さよう、少し目につきましたのは、アメリカでは、政府でも民間でも、およそ人の上に立つものは、みなその地位相応に怜悧でございます。この点ばかりは全くわが国と反対のように思いまする」と言ったら、御老中が目を丸くして、「この無礼もの控えおろう」と叱りつけたっけ、ハハハハ
引用終了
「日本人とユダヤ人」山本七平著から「氷川清話」を引用している部分を引用。

平和型国家では頭の良さはそれほど重視されない。
戦争がなければ、頭の良さといった一つの物差しによって、人間の価値を図らないからだ。
むしろ公正さが求められるといっていい。

戦争の危険性がなくとも国家は共同体内の利害を調整する仕事がある。
利害を調整する場合まず必要なことはえこひいきせず、平等に共同体内の成員を扱うことだ。
どちらかの肩を持てば、不利な方は反発する。
平和型国家では権力が分散されているので、不利な方は協力しなくなってしまう。
そうすると対立がそのまま続き、どちらにとっても利益にならない。
必要なことは公正に双方にとって得になるように、裁定を下すことだといっていい。
落としどころはそんなに難しくはない。
双方の要求を足して二で割ったところにたいていはなる。

今回の話のまとめは、戦争型国家では指導者が有能であることを求められるが、平和型国家では指導者は有能でなくてもいいということだ。

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