異をとなえん |

指導者の重み - 平和型国家論(その4)

2012.09.14 Fri

21:18:04

外国の歴史書などを読んでいると不思議だと思うことがある。
なんというか、物凄くひどい独裁者がいる。
国民を大量に殺しまくっている。
ぱっと出てくるのは、ソ連のスターリンとか、明の朱元璋なのだが、自分の直接の部下を無実の罪で大量に処刑するわけだ。
なんでこんなことが許されるのか不思議に思う。
部下は反乱を起こそうと思わないのだろうか。
自分の身の回りの人間が片端から逮捕されていく状況で、次は自分の番だとほとんど予想がつくような状況なのに、特に抵抗するまでもなく、運命に身をゆだねている。

ヒトラーのユダヤ人虐殺などはわかる。
いや、もちろん動機とかそこらへんの話ではないが、ユダヤ人を殺すこと自体はほとんどのドイツ人にとって対象外の話で反乱すべき理由にはならなかったのだろう。
自分が粛清の対象者から除外されているならば、独裁者に忠誠をつくすことはわかる。
わからないのは、自分が粛清の対象者にほぼなっているのにも関わらず特に反乱しようとしないことだ。

日本の歴史が反乱で満ち満ちているのと反対なわけだ。
日本でも独裁者と呼ばれるような人間は何人かいた。
戦国の三傑、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などがその代表だ。
織田信長は結局明智光秀の謀反によって倒れた。
明治時代には独裁的な指導力を発揮したを思われる大久保利通も暗殺されている。
幕末に独裁的な権力をふるった井伊直弼も殺されている。
日本で独裁者と呼ばれるような人間は方々から恨みをかうことが多いので、非業の死を遂げるわけだ。
これだけ暗殺が多いのに、指導者をきちんと守る警護システムがないのは不思議な気がするが、暗殺を警戒する意識が低いのは、警戒すること自体が国民の憤激を買うと思うからだろうか。
暗殺が多いのは、少なくとも指導者が悪を為していると思うとき、法を犯してもいいと多くの人々が考えていることだ。

暗殺自体ならば、日本も他の国も違いはないという考えはある。
直接の部下による暗殺でも、ローマのカエサルような例がすぐ出てくる。
違うのはやはり、決起しても不思議がない状態なのに、唯々諾々と従うような例だ。

結局、その違いは指導者の重みだ。
日本と他の国の違い、つまり平和型国家と戦争型国家の違いは、戦争を常に意識している戦争型国家では指導者の重みが大きくなることだ。
指導者が欠けると、敵の侵略に対応できなくなる。
内部で相争えば外部からの絶好の的だ。
外部に敵が存在すれば弱みを見せないように団結する。
戦争型国家では外部からの敵に弱みを見せないように、国内において一つにまとまっていくことが絶対に必要なのだ。
それが指導者に独裁権限を与え、時に暴走を生み出す。

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497 意思決定システムとしての独裁者 - 平和型国家論(その5)

平和型国家論にまた戻りたい。 戦時において指導者に権限が集中し、極めて重要であることは前回に述べた。 同じことの繰り返しになってしまうが、指導者への権力集中が別の面からも必要であることを書く。 安全保障が国家にとって極めて重要ならば、その意思決定をどうすればいいのか。 意思決定にも大方針から些細な問題までレベルが分かれる。 まず、大本の仮想敵国を設定し、戦略を練らねばなら