異をとなえん |

ノーベル経済学賞を目指して

2012.07.07 Sat

20:52:01

韓国人科学者たちには悩みがあった。
十年後韓国人が始めて科学部門のノーベル賞を取ったときに、どう祝っていいかわからなかったからだ。
postechに用意されている台座への銅像では不十分な気がした。
韓国人宇宙開発担当者たちには悩みがあった。
十年後韓国人が始めて月に宇宙船を着陸したときに、乗せるべき物が決まってなかったからだ。
他の国と同じような検査機器ではインパクトが足りなかった。
両者が歓談をした。
月に韓国人初のノーベル賞受賞者の銅像を建てるアイディアがひらめいた。
しかし、さらに話が進むにつれて決裂してしまった。
なぜかを宇宙開発担当者に聞いた。
「だって銅像を建てたら月はノーベル賞受賞者の所有物だっていうんだ。月は俺たちの所有物に決まってるだろ。」

韓国人ネタのジョークは面白いと思っている。
というより、現実の韓国人の体を張った行動が最高に面白い。
それはニダーさん(韓国人の愛称として使っています。)たちが、いつも大真面目だからだ。
そして失敗する。
クイズ番組にある○×選択式の問題で間違えると泥の中に落ちるようなケースで、ニダーさんは常に自信満々と100%の確信を持って突っ込み、必ず間違えて泥の中に落ちる。
日本人だったら自信なく選ぶのが精一杯の状況でも、韓国人は自信にあふれている。
自信満々な人が失敗する、それがおかしい。

ノーベル賞についても十年後受賞できるのをさも当然かのように語っている。
日本人から見るとお笑い草である。
実績を挙げていても十年以上かかるのに、実績がない国が受賞できるわけがない。
そして日本人たちはノーベル賞を目指して研究しているようでは、受賞できないという。
ノーベル賞は独自の科学上の業績に、結果として与えられるべきで、それを目指して研究するようなものではないと。
その意見は正しいのかもしれないけど、でもノーベル賞並の業績をあきらめる弁解に使われていないだろうか。

日本は科学者にノーベル賞を期待し過ぎだという声がある。
結果としての受賞だから、ノーベル賞を目指す研究は邪道というわけだ。
ノーベル賞自体の受賞を目指すのは確かに邪道だろう。
でもその部門での最高の業績を目指すのはおかしいことだろうか。
日本の科学者には、なんとなく地味にこつこつと研究する科学者を理想とするようなムードを感じてしまうのだ。
でも地味な研究というのはあるのか。
たとえば物質の特性を一つ一つ調査していくような研究がある。
必要なことだけれど、ノーベル賞は取れないというわけだ。
でも理想は高く持って研究することはできる。
原子の構造から、その特性を全て計算によって導くことができればノーベル賞を取れるのではないだろうか。
その理論の実証のための実験だと思えば、すごい研究だ。

あるいは主流の研究活動から外れた研究をしたい方もいるだろう。
成功しても今のノーベル賞の選考委員会からは否定されるかもしれない。
しかし、それはノーベル賞選考委員会がぼんくらだからという気概を持って、研究すべきなのだ。

科学者たちは今の自分の研究が成功したらノーベル賞を受賞できる、と自信を持って発言できなくてはならない。

私は経済上の諸現象を分析することに興味を持っている。
冷静に判断すると素人経済学者にはノーベル賞は難しい。
冷静に判断しなくても無理だけど。
でも、経済上の現象を分析する人として、やはり最高の業績を目指さなくてはならない。
経済学のノーベル賞がある以上、私はノーベル経済学賞の受賞を目指して活動するのだ。
ニダーさんの根拠のない自信を見習うべきなのだ。
その分析について、今後書いていきたい。
そして、ノーベル賞を受賞して、十年後かぐや2で月に銅像を建ててもらうのだ。
あれ?

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472 労働と財・サービスの交換理論 - ノーベル経済学賞を目指して(その2)

好きなジョークに次のようなものがある。 引用開始 メキシコの田舎町。海岸に小さなボートが停泊していた。 メキシコ人の漁師が小さな網に魚をとってきた。 その魚はなんとも生きがいい。 それを見たアメリカ人旅行者は、 「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの」と尋ねた。 すると漁師は 「そんなに長い時間じゃないよ」と答えた。 旅行者が 「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れたんだろうね。おしいなあ」 と言うと、漁師は、自分と自分の家族が食べるにはこれで十分だと言った。