異をとなえん |

韓国人はなぜ整合性を持った嘘がつけないのか?

2009.04.28 Tue

23:56:09

昨日の記事を書いた後、「消えた王国」のことを思いだした。
「消えた王国」というのは、韓国の小説で百済が滅亡した時代に焦点を当てた、
5巻からなるシリーズだ。
百済が滅亡した時代というのは、朝鮮に三つあった国、
新羅、高句麗、百済の中で新羅が朝鮮を統一した時代であり、
それに介入して唐と日本が戦った時代だ。
金春秋という新羅の王族が日本と唐をまたに駆けて外交活動をし、
ついには国王となる時代だ。
その時代の歴史小説で、韓国ではベストセラーになったと聞くと、面白ろそうである。
でも、つまらない。その理由は世界を作る力がないからだ。

話の発端は書き手が実は百済の王の子孫で、
それを証明する族譜を燃やしてしまったことから始まる。
ノンフィクション風に始まるので、ここらへんで苦笑してしまう。
その後、百済の歴史を調べるうちに、
日本に調査に行き、七支刀とか広開土王碑文の問題に焦点が移っていく。

七支刀の話では、そこに刻まれている年号が解読不明なのは、
日本人の発見者が歴史を捏造するために自分で削ったとしている。
そこはいい。
でも、そうしたならば、元の年号は何か気にならないだろうか。
私は気になる。
でも、その説明はない。

広開土王碑文の話でも、当然のように、日本の参謀本部が改竄したことを前提に話が進む。
そこはいい。
でも、そうしたら、
元の碑文にはどう書かれていて、どう改竄したか、気にならないだろうか。
私はなる。
でも、当然のようにスルーする。

その後、ノンフィクション風ではなくなり、歴史小説に変わっていく。
ずいぶん前に読んだので、どう切り替わったかなんて完全に忘れてしまったが。

その歴史の中では斉明天皇は百済の王の妹になっている。
小説だから、それはいい。
でも、そうすると百済と日本の関係はどうなっているかが、気になってくる。
彼らの親の時期には二つの国は一つの国だったのだろうか、
もし別々の国であったのならばどうして兄弟で国王と天皇になれるのだろうかとかだ。
その疑問への答えはない。
覚えている限り、斉明天皇の前の時代についての説明は何もなかった。
なんか本の後の方で出るのではないかと思ったことを覚えている。
もっとも、あまりにもがっかりして、
途中で読むのをやめてしまったので、後半に出るかどうかは知らない。

この作品は韓国ではベストセラーになったと聞いたのだが、
どうしてこの内容に魅かれるのか全然わからない。
小説という大きな嘘に、感動することを知らないのだろうか。
小説の魅力は、とてつもない大ボラを吹いて世界を作り出し、
その世界の読者を引き入れる部分だ。
韓国人には、
その整合性を持った世界を作り出す才能が完全に欠けているのではないだろうか。

昨日の番組と考え合わせると、
韓国人はとりあえずその場その場をしのげればいいと思って、
口から出まかせを言っている気がする。
口からの出まかせはいいとしても、
本当らしく見せるために整合性を持った世界を作りだそうとしない。
なぜか。
答えは整合性を持った世界がわからないのだろう。
歴史的事実をそのまま丸暗記して教育させるために、
原因があって結果があるといった世界がわからない。
斉明天皇が百済王の妹といったら、それだけを丸暗記して、
それ以外のことに興味を持たない。
そんな暗澹たる教育現場が想定できる。
なぜそんな教育になってしまうかは、よくわからない。
韓国儒学の影響が大きいとは思うが、
私のいい加減な韓国理解ではもう手に届く範囲ではない。
暗記重視の教育によって整合性を持った世界が理解できなくなっているというのが、
私の結論だ。
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「日本と朝鮮半島2000年」感想

2009.04.27 Mon

22:15:36

「日本と朝鮮半島2000年第1回古代人々は海峡を越えた」を見る。
けっこう良かったというのが第一印象だ。
あまり期待していなかったので、
見たことがない映像をたくさん見れただけでも満足できる。
でも、予想通り不満な部分も多かったので、それを書いておく。

まず、頭に浮ぶのは、仏教渡来の所だ。
韓国人学者が仏教渡来の百済の役割を力説していた。
日本に渡来した仏教は中国の仏教そのままではなくて、
百済が選択した仏教を輸入したのだと。
ここは納得できる。
でも、当然のことながら、百済の選択した仏教は何かという疑問が出てくる。
中国の仏教の内、百済は何を受け入れ、何は捨てたのかという話だ。
そして、日本も百済のように選択しているかどうかの話になる。
しかし、その話は突如打ち切られ、発展しない。
欲求不満になってしまう。

第1回ということで、今回は総論的な話なのかもしれない。
第3回にも、仏教伝来の回がある。
そこで、もう一度この話が出て解決してくれることを願う。

仏教伝来ではもう一つ気になった部分があった。
蓮の形を模した瓦の話である。
朝鮮の王興寺の瓦はすべて花弁が8つなのに対して、日本の飛鳥寺の瓦は11だ。
この違いが何でできたかが、気になる。
日本の仏教は日本書紀に記載あるように百済が伝えたことは間違いないだろう。
それならば、寺院の建造方法も百済から学んだと考えるのが自然だ。
それなのに、なぜ百済と模様が違うのか。
瓦が今回日本で始めて作られたならば、
まるっきり同じになってもおかしくない。
それなのに違う。

建築様式も、日本の飛鳥寺と百済の王興寺では違う。
一塔三金堂式の飛鳥寺と一塔一金堂で二つの附属建物がある王興寺の違いだ。
その違いが何から来るのか。
日本が百済そのままを潔しとせず変更したのか。
百済での作成では、いろいろな事情、資金不足とかで、
満足いくものができなかったから、日本では変更したのか。
高句麗が一塔三金堂式ならば、実は百済が特殊のような気もする。

もう一つ気になって部分として、
金官伽耶の古墳に埋まっていた巴形銅器がある。
私の目には日本に埋まっている巴形銅器とほとんど同じに映った。
上に書いた瓦とは違う。
普通に考えれば、
金官伽耶の国が日本のかなり強い影響を受けているように見える。
日本書紀に任那日本府が設置されていたと書いてあるならば、
日本の統治下にあったと考えても不思議ではない。
韓国の学者は金官伽耶が独自の国家だったと発言している。
そうすると、何が独自だったのかが気になる。
でも、そういう部分の話はない。
ここらへんの突っ込み不足が残念だ。

番組の中での最大の発見は鉄のことだ。
日本が鉄の供給を朝鮮の伽耶に頼っていたことを私はつい忘れがちだ。
日本が鉄製の武器の供給を伽耶に頼っていたとしたら、
その関係はどんなものだったろうか。
少くとも相当密接な関係だったことは想像できる。
高句麗の勢力が南下したとき、
日本は救援に駆け付ける事情があったことになる。
鉄を供給してくれる所がなくなれば、滅亡したっておかしくない。
そういう意味でこの頃、日本と朝鮮は一番近しかったのだ。
この番組を見て、
鉄の重要性について再認識できたことが一番の収穫だった。
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人類が共生するためにも主権は必要なのだ

2009.04.25 Sat

20:05:39

「日本列島は日本人だけの所有物じゃない」と鳩山由紀夫氏は言った。
いったい何を言っているのだと思う。

【鳩山幹事長会見詳報】「(永住外国人の地方参政権は)愛のテーマだ。付与されてしかるべき」によると、
その発言の真意は次のようなものだ。


地球は生きとし生けるすべての者のものだ。そのように思っている。日本列島も同じだ。すべての人間のみならず、動物や植物、そういった生物の所有物だと考えている。この中でそれぞれが自立しながら共生していく世の中を、どうやってつくっていくかということが、ある意味での日本、世界に生きる人々の最大のテーマになるのではないか。


根本的に考えを間違っているとしか思えない。

所有権という概念は、共生するための人間の智恵だ。
所有権というものがない世界を考えてみればいい。
種を植え、手間暇をかけて育て、
ようやく収穫しおえた穀物を寝ている間に持っていかれる。
そんな世界が望みなのだろうか。
もちろん、そんなことは起こらない。
自分達が手間暇をかけて手に入れた物を守るために人間は戦う。
今までも戦ってきたし、これからも戦うだろう。

人類に所有権という概念が生まれたのがいつかは、わからない。
たぶん、道具を発明した時だろうと思う。
最初の道具は石器だあろうが、それを利用することによって、
人類の生きる可能性はずっと上がった。
人類より大きい猛獣たちが怖くなくなった。
逆に狩るべき獲物として捉えることができるようになった。
そうすると、道具を失なうことは直ぐに死に直結する問題となる。
だから、手間暇をかけて作り出した道具を盗む者とは戦うことになう。
道具は自分の物だという認識が生まれたのだ。
その概念は直ぐにみんなに共通のものになったはずだ、
幼児でさえ、自分の物とうい概念を直ぐに覚えるように。
所有権という概念が生まれたからこそ、盗みは悪いものという認識が生まれ、
泥棒に対してはみんなで戦う共同体が生まれる。

土地の所有権も同じものだ。
土地も最初は道のようなもので、誰かの物という概念なんてありはしない。
けれども、農耕が始まって、土地を耕し、穀物を育てて生活ができるようになれば、
その土地に権利を持っているという認識は直に生まれる。
その土地は自分のものだと。
結局、全員に行き渡らない資源があり、その資源を利用できる人がいれば、
所有権という概念は自然に生まれるのだ。
所有権が生まれ、それを尊重する意識があるからこそ、
社会は争わずにいることができる。

国の主権も同じといっていい。
国がその領土に対して、全権を持っている意識があるからこそ、
他の国はそこに手を出すことはしない。
戦争として手を出すことはあるが、それは戦いになることを前提にしているのだ。

「日本列島は日本人だけの所有物じゃない」と言うけれど、
それでは誰かに与えることもできなくなってしまう。
そのような世界は混乱しかありえない。

地球は人類だけの物ではなく、ありとあらゆる生き物が共生する星とするならば、
なおのこと主権や所有権を尊重し、その土台の基に互いに智恵を出しあうしかない。
私には、これはほとんど自明だと思う。
この話の元である、永住外国人の地方参政権にしたって、同じだ。
日本人が日本列島の所有者である、
つまり日本が日本列島を領土にした主権国家であるという認識があってこそ、
永住外国人に地方参政権を与えることができる。
持っていないものは、与えることもできないのだ。

国会議員を何年もつとめる、一党の指導者が、
こんなお花畑の頭で地方参政権を論じているかと思うとがっかりする。
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なぜ日本のマスコミは反日的なのか?

2009.04.25 Sat

02:45:01

日本のマスコミは反日的だと言う話がある。
ネットの世論では、最近それが顕著になっている感じがする。
私は必ずしもそうは思わないけど、反日的だと思わせる部分も確かにある。
ずばり言えば、反日を思わせる部分はマルクス主義の残滓だ。
特に、国家は階級支配の道具であるというドグマの影響だと思う。

マルクス主義の世界観では、
国家は上位の階級が下位の階級を支配するために作ったものであり、
それゆえに階級が無くなれば国家は消滅するとしている。
マルクス主義自体はすっかり廃れてしまったけれど、その影響はあちこちに残っている。
かってのマルクス主義者、社会主義者たちも、名前を変えて生き残っている。
特に主義思想は掲げていなくても、そんなふうに見える人は多い。
彼らの最大の特徴が国家の否定だ。

ソ連の崩壊により、社会主義国家が世界中に広まっていく理想は信じられなくなっても、
それに変わるものはない。
まあ、くるっと一回転して反共に走る人もいるが、
そうではなくマルクス主義自体は信じられなくなっても、
はっきり間違ったと言明できない人たちが多くいる。
マルクス主義は戦前から戦後一世を風靡し、大学などの高等教育機関では、
ほとんどがマルクス主義にかぶれることになる。
そのころに生きた人を多かれ少なかれ、その影響を受けた。
団塊の世代と呼ばれる人たちは、その最後の生き残りだろう。
彼らは企業などのトップクラスにいる。
普通の企業の場合は、マルクス主義風の世界観を持っていても、どうってことはない。
日々の企業活動は社会に影響を及ぼさない。
問題なのは、言論活動をしているマスコミだ。

国家は階級支配の道具という理解、報道機関の役割は権力の腐敗と戦うことと言う意識、
太平洋戦争での多くの民間の犠牲者を出したことなどが、
マスコミを政府との戦いに駆り立てている。
反政府であることが一つのモットーとなり、敵の敵は味方であるという認識が、
中国や朝鮮に味方しがちとなる。
当人たちの意識では別に味方しているのではないだろうが、
他の人たちからはそう見えてしまう。

もう一つ、マスコミが反日的に見える理由として、政権交代がなかったことがあげられる。
55年体制以後、自民党はずっと政権を取り続けている。
細川、羽田政権という自民党ではない政権もあったが、短期間であり、
選挙で勝取った政権でもなかった。
反自民の野合といった性格で政策もあいまいなままだった。
そのため、マスコミは自分達が賛成した政策を実行に移す政権を持っていなかった。
あるいは、自分達が反対した政策を取り止める政権を持っていなかった。
つまり、現実の可能性を持っていない理想論で、
政府の現実論を批判することが可能だった。
基本、反政府なだけで言論することができた。
野党が政権を取れば、そういうわけにはいかなくなる。
自分たちが賛成した政策を政府が取れば、政府を批判するわけにはいかない。
そうなれば責任を持つことになる。
反政府という無責任な立場に安住せず、個々の政策の是是非非を表明する必要が出てくる。
そうなれば、単純な反政府、反日といった感じではない言論活動になるだろう。

現在政権交代は微妙な情勢になっている。
ある意味で残念である。
政権交代があれば、マスコミにとって正常化する大きな一歩になると思うからだ。
政権交代がなければダメなままでいいかというと、そうもいかないので、
一つの提言をしたい。
マスコミは不偏不党の旗を捨てて、どの党を支持するか、
少くとも選挙時ははっきり言明するべきだ。
政策を比較対照して、
どちらの党が政権を取るのが一番望ましいかを考えて論評をするならば、
無責任な意見を言えなくなる。
反日とまで呼ばれる意見はなくなる。
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オバマ大統領の医療改革はうまく行くのか?

2009.04.24 Fri

02:22:05

オバマ大統領が健康保険を国民全部に広げようとしている。
先進国のほとんどが、国民健康保険なのに、
そうでなかったのは不思議といってもいい。
クルーグマン氏は、
アメリカに国民保険がないのは人種差別のせいだと本に書いていた。
それを読んだ時、腑に落ちたことを覚えている。
本当に人種差別が原因かは、わからない。
ただ、アメリカという移民を自由に迎え入れる国は、
国民保険になじみにくいのだと思う。

国民保険は、国民全員がお金を出しあい、
病気になった時カバーするシステムだ。
基本的には、全国民の所得が平等であることを前提にしている。
あるいは、全国民が平等な医療を受けられるべき共同体だ、
と信じていることを前提にしている。
日本では医療の安全が平等だというのは、大体受け入れられている。
日本人全体が共同体という、一体感があるのだ。
ヨーロッパの国々も、実態はともかくとして、理念としては同じだろう。

しかし、アメリカは違う。
アメリカは移民国家であり、あらゆる所から、
人々を受け入れることを認めてきた。
最近は規制も厳しくなっているとはいえ、
まだ多くの人々を受け入れていることには変わりない。
その場合、移民たちにアメリカ人は連帯意識を持てるのだろうか。
持てないというのは、当然だろう。
全然縁もゆかりもない人たちなのだ。
だから、自由と民主主義を擁護する仲間としての意識はあっても、
医療のように個人の物欲に関係する問題は個人で対処するのが原則となる。
それがアメリカの自由という考え方だった。

では、オバマ大統領の改革はうまくいかないのだろうか。
それはよくわからない。
ただ、クリントン大統領の時の医療改革と違って、
現在はより強い不況になっている。
中産階級が大量に雇用を失ない、保険に入れなくなった。
改革の機運が高まっているのは確かなようだ。

それでは、先ほとの移民を自由に受け入れてきた伝統とは、
どう調和するのだろうか。
私には、移民の規制を強めて、受け入れをより制限に向かうしかないと思う。
つまりは内向きになって、国家としての一体感を高めていくのだ。

オバマ大統領は選挙戦の時から、アメリカ国内の融和を訴えていた。
それは正しい方向だと思う。
アメリカ内部では分裂の芽が幾つも出ている。
富める者と貧しき者、英語とスペイン語、白人と黒人とヒスパニック。
それらが最終的に、共和党と民主党の根深い対立に結びついている。
この対立を危惧する人たちが、オバマを勝利に導いたのだ。

ただ、方向が正しいからといって、うまく行くとは限らない。
むしろ、対立を激化させる可能性もある。
リンカーン大統領はアメリカの国家としての統一を第一に考えていたが、
それが返って反発を生み、南北戦争を招いてしまった。
オバマ大統領の国民を融和する路線も、
かえって共和党支持者の反発を招いている。
医療制度改革はその先駆けだ。

前に私はオバマ氏を白鳥の歌にたとえた。
その感覚はより強まっている。
オバマ大統領は、人の話を聞きすぎていては何も決まらないし、
かといって強く推すだけでは対立は深まる。
アメリカという仕組み自体が、それに耐えられるかが問われる。
アメリカがそれに耐えられなければ、影響は世界に拡散していく。
今後の世界を占う上で気になってならない。
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「文は人なり」と思う

2009.04.23 Thu

01:06:39

はあ、またなんか書けなくなってしまった。
グダグダである。
しかたがないので日記でも書こう。

昨日はプリウスについて書きたかったのだ。
3代目プリウスは来月発売予定のトヨタのハイブリッド車だが、
その受注は2万台を越え、好調さが話題になっている。
このプリウスとからめて、ハイブリッドシステムの将来性、
日本の景気回復などを書くつもりだったのだが、
なんかまとまらなくなって放棄した。
頭の中で考えすぎて、どうも風呂敷を広げすぎてしまうらしい。
それで収拾がつかなくなり、あきらめる。
なんかそんなことが多い。
文章を書く難しさを痛感する。

「800字を書く力」という本を最近読んだ。
文章を書こうと思っている人間にはお勧めな本だ。
目から鱗の指摘もあり、推薦文を書きたいのだが、
どうも力が入ってしまって、書けない。
自意識過剰になってしまうらしい。
この本の中にも、自分を捨てて、最初の一文を書く勇気が大切だと書いてある。
でも、その勇気が難しい。
どうしても、いろいろなことを考えてしまう。

なんとなく、少し話がまとまってきた。
文章を書く勇気、最初の一文を書く勇気が、
どうしたら身につけられるかという話になってきた。
でも、勇気なんか必要ないとも言える。
公表するのは勇気がいるかもしれないけど、
書くだけだったら勇気なんていらない。
まず、どうでも言いから一文を書き、文章を書いてしまう。
それから、自分にとって公表したくない部分は、
削除し変更してしまえばいいのだ。

最初の一文の書き出しは確かに迷う。
自己愛とかいうよりも、後をどうしたら繋げられるかか難しい。
適当でない一文を書くとすぐ止まってしまう気がする。

文章を書くのはやはり難しく、そう易しいものではないということだ。
けれども、練習によって向上する。
私もブログを書きはじめてもう二年経つが、
文章自体は随分うまくなったと思っている。
ぎこちない部分が抜けてきたつもりだ。
それでも、より上を目指そうと思えば、難しい。
そういうものなのだと思う。

定期的にこんな文章を書いている気がするが、所詮は自分の人間としての器だ。
読んでいる人から見れば、
つまらんことを長々しく書いているだけだと思っても、
書いている方は受け入れるしかない。
この文章に自分が現れているわけだ。
所詮自分は簡単には変われない。
自分が成長していなければ、文章が成長するわけがない。
文章だけとりつくろっても、ボロが出るだけだ。
今日はそれを受け入れて、また明日を期そう。
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続・sunamoに行ってきた

2009.04.20 Mon

01:08:15

この前sunamoに行ってきた記事の中で、
「平日のせいかあまり人がいない。」と書いた。
今日日曜日、違いがあるかどうか確認するために、再度行ってみた。
かなり人がいる。
混雑していると言っていいほどだ。
たいした話ではないが、前回の記事が誤解を招きそうなので補足してみた。
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