異をとなえん |

「中国思想と宗教の奔流」感想

2008.10.30 Thu

03:57:35

小島毅(こじまつよし)「中国思想と宗教の奔流 宋朝 中国の歴史07」を読む。
講談社版中国の歴史7巻目で、宋朝約300年の時代を扱っている。

目次は以下の通り。

はじめに
第一章 宋朝の誕生
第二章 宮廷の運営
第三章 動乱の世紀
第四章 江南の安定
第五章 宗教の土着化
第六章 士大夫の精神
第七章 技術の革新
第八章 文化の新潮流
第九章 庶民の生活
第十章 中華の誇り
おわりに

読みにくい本だ。
たとえば、「続資治通鑑長編」というタイトルは「長編」と略すとある。
それはいい。
しかし、何十ページも後に出てきても覚えてられない。
急に出てきて、そういえば何かの略称だったなと最初に出てきた部分を探してしまった。
索引に「長編」があるかと思ったが存在しない。
それから、さらに何十ページも後に、
同じように「続資治通鑑長編」というタイトルは「長編」と略すとあって、
単なるミスだという事がわかった。

他にも、晋王李存勗が梁の皇帝朱全忠との戦争中、
晋軍の中に後に皇帝となる5人の人物がいたと、書いてあれば、
それが誰だか知りたいと思うではないか。
ところが、答えがない。
後にいろいろ皇帝名が出てくるのだが、5名以上なのではっきりわからないのだ。
そういう細かい部分にいろいろと問題があって読みにくい。

他にも、多分根底には何らかの史観があるのだろうが、わかりにくい。
人名と事項の羅列になっている。
政治史を最初に片付けて、
本当に書きたい思想史の部分に力を注いでいると思うのだが、どうもピンとこない。
作者は儒教を肯定的に見ていると思うのだが、
儒教の大きな変化が宋の時代にあったことはわかっても、
それが歴史にどういう意味を持つのかが、私にはわからない。
儒教の主流が朱子学になったからといって、どうだと言うのだろう。

また、蒙古に対して後世の影響では勝ったとしても、
軍事的に負ければそれは負けではないだろうか。
殺されても精神では勝っているとかいっても、負けおしみにしか見えない。
でも作者はそういう宋の精神を肯定しているように見える。

さらに、天変地異を天からの警告ととらえる考え方に共感を示している。
「天体の運行は人間界とまったく無縁なのだろうか。」(P254)
無縁に決まってる。
天体の運行なんて物理学でほぼ完全に説明できる。
しかし、真面目に書いているように見えるのが、何とも困る。
本気なら「とんでも」にしか見えない。

参考になる部分もあった。
宋代の中世近世の議論は考えさせられた。
中国において中世はないという理論を書いている身には、いろいろとためになる。
今後参考にしたい。

最後に、気になった数値の部分を後での参考のために引用しておく。

漢や唐の総人口が六〇〇〇万だったのに対して、徽宗の時に一億を超えた人口は以後持続的に増加するという。



ある研究によれば煕寧九年(一〇七六)の保甲法における丁男数では、市と鎮を合わせたものの占める割合が全体の三.四二パーセント、つまり約三〇分の一となっている。
(P325)

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中世の終わる時 - 理想国家としての日本(その9)

2008.10.29 Wed

03:16:31

中世の始まりでは、地域は経済圏として自立した。
しかし、時間と共に経済は発達して生産が増え、地域ごとの特色が生まれ、
独自の製品を生産していく。
交換による利益を得るために、各地の間での交易が盛んになっていく。
地域ごとの交易が盛んになるにつれて、交易をより発展させるための、
システムの重要性が意識されるようになる。
通貨制度の統一、物流の整備、各種法律の整備等である。
これらのシステムを統合する事を要求するエネルギーは、
分権化された政治システムの統合を要求し、
国家は再度の統一に向かう。
その結実が絶対王政などとなる。

日本では、織田、豊臣、徳川政権であり、
西ヨーロッパではルイ14世のような絶対王政である。
日本と西ヨーロッパでは権力の統一主体に差がある。
日本では下剋上によって、下からの力が最終的にまとまって権力が樹立された。
それに対して西ヨーロッパでは、その当時の王権が力を増して、
他の貴族の力を削いで権力が樹立された。
しかし、これはそれほど重要視すべきではないと思う。
結局の所、統一を担った所に権力が集中したに過ぎない。

理屈が思いつかない事の言い訳なので、さらっと流して欲しい。

また、なぜ権力が絶対的になったかという問題がある。
これは統一のエネルギーが一点に集中したからだ。
統一の過程での争いが指導者に権力を委ねる事を要求し、
結果、統一完成時点で指導者の権力は頂点に達する。
だが、それ以後は得に権力を集中する事に意味がないので、
緩やかに減退していく。

江戸時代、徳川家康以降の将軍は巨大な権力を振うことはない。
西ヨーロッパでは絶対王政以後は市民革命の時代に突入してしまう。
日本との違いについては別の話になる。

西ヨーロッパの場合、王政の権力が非常に強くなった事には対外的な面も大きい。
ルイ14世は統治期間のほとんどを戦争に励み、領土を増やしていった。
外国との戦いは国内の意識を敵に向け統一性を高めた。
さらに、フランスが一つにまとまり他国との戦いを有利に進めるようになったことは、
他の西ヨーロッパ諸国を刺激したはずだ。
一つにまとまらなくては勝てないという意識が、
他の国の間でも国内的な統一を促進することになる。

かくして、地域の分権化で始まった中世は、地域の再統一で終わる。
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中世の権力構造 - 理想国家としての日本(その8)

2008.10.28 Tue

11:29:41

なんか、手間暇かかっている割に内容がない。
弁解として、ここで述べている事は実証的研究ではなく、
私の歴史観に基づいた仮説だと主張しておく。
日本史はともかく、西ヨーロッパ史はよくわからないので、
基本的事実を間違えている可能性もある。

中世の権力構造について考えてみよう。
中世は、農村の余剰生産力が最低限度の軍事力を生み出せるようになった事で、
農村が政治的に自立した事だと述べた。
しかし、旧権力は未だに残っている。
それを一夜にして変更する事はできない。
長い時間をかけて、多くの紛争を重ねながら完全に自立化する事になる。

日本では、朝廷による国司を通した地方の支配構造は、ずっと残っていた。
荘園を通して武士の力は確立していったが、国司とはずっと共存している。
荘園が発生した当初、国司が国の治安は掌握していた。
それが土地紛争などで武士が生まれ、私事の争いにせいを出すようになる。
その結果平将門のように国家に逆らう武士が生まれた。
しかし、平将門を討ったのが、やはり武士であるように、
朝廷のお墨付きを貰うことで武士は認められていく。
鎌倉時代になると守護が設置され、
治安については武士の力がはっきりと優位に立つことになる。
そして、室町時代になると国司は意味を持たなくなり、
完全に新権力が取って代わった。

西ヨーロッパでは日本と違って、
旧権力であるローマ帝国は直ぐに滅んだ。
日本みたいに長期に渡る共存の過程を得なかった。
旧権力の名残りはキリスト教ぐらいだろう。
もっともローマ皇帝はカール大帝の元で復活するが、
旧権力というより、新権力の名前が変わっただけだ。

ゲルマン民族はヨーロッパに定着していった後も、
国家としてまとまってはいなかった。
そのため、各地に定着していった単位ごとに、
権力としては自立していった。
日本で言えば、武士の政権が直ちに形成され、王朝権力は崩壊した。
室町時代が直ぐに来たようなものだ。

ただ、農村の最下層はローマ帝国時代からの農民たちだろう。
そのため、日本と違って、地域の下から生まれた力が、
上からの力と争うのではなく、途中からゲルマン民族が真中を乗っ取った感じだ。
これがもたらした影響については、また別個に考えたい。
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韓国の経済危機の真の原因

2008.10.26 Sun

04:02:56

韓国の経済危機について、ちょっと一言言いたくなったので、
「理想国家としての日本」のシリーズを休んで書く。

韓国の新聞が通貨危機は外国の偏向報道が原因だとわめいている。
ご苦労な事である。
報道さえされなければ、外国資金が逃げ出す事はないと、
幻想を抱いているのかもしれないが、
外国の投資家がそんな馬鹿な訳がない。
ある程度の外国資金が逃げ出す事を前提として、
対策を実行する必要があるのに、それを何もしていない。

韓国の経済危機の本当の原因は、本当の意味での対策を何も打っていない事だ。
自国通貨が安くなっていく場合の対策は簡単だ。
輸入を減らして、輸出を増やす事だ。
当面の対策として、資金繰りのための借金はあるが、それは本質的に重大ではない。

当面の世界経済は減速が必死だろう。
そうすると輸出は増えないので、輸入を減らすしかない。
輸入を減らすには、経済の引締めをするのが第一だ。
しかし、韓国政府は輸入を減らす政策をなんら取っていない。
金利を引き上げて、経済活動を引き締めなくてはいけないのが、
逆に引き下げて、経済活動を活発にしようとしている。
また、建設業者に金を突っ込んて破産を止めようとしている。
しかし、政府が資金を投入する事は、ウォンの流通量を増やす事であり、
ウォン安要因だ。
観光旅行の制限とか海外送金の制限もしていない。
ウォン安自体が、それらを抑止する効果があるから、
対策を取る必要はないという考え方もあるが、
精神的な効果だけでも実行する価値がある。
実行しないのは、世論の不評を韓国政府がやなだけだろう。
つまる所、韓国政府は不況がいやなので対策を取りたくない。
それだけだ。

韓国の外貨準備は巨大だ。
だから、出血を防ぐ措置を取れば問題はないかもしれない。
しかし、どんなに外貨準備、すなわち輸血血液が多くても、
出血量が増えていけばダメになる危険性はどんどん大きくなる。
韓国は今そんな淵にある。

引き締め政策は、言うは易く行うは難い政策はある。
だから、結局IMFがやってきて代わりに実行せざるを得なくなる。
韓国はその方向に向かって真っ直ぐ進んでいる。

私はずっと韓国は危機を回避できると予測していた。
けれども、それは私の買い被りだった。
目の前に氷山があるのに、回避行動をしないのは予測できない。
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中国の中世 - 理想国家としての日本(その7)

2008.10.24 Fri

20:09:39

なんというか、円高がむちゃくちゃに進んでいる。
1ドル90円台って、見出しがあったから
99円から90円の間なのかと思ってしまった。
95円ぐらいから、いきなり90円になるなんて、なかなか思わない。
black everydayという言葉があるけど、本当そんな感じだ。
こんな時に昔の歴史の事を考えている私も、
呑気だと今さらながら思う。

中国における中世について考えてみよう。
かねて述べているように、中国は帝国モデルという事で、
農村の自立ができない。
常に上からの圧力で収奪が続いていく。

南北朝の時代とか、唐代末期とか、
地方の自立に向けた動きが見えない事もない気がするけれど、
遊牧民族の侵攻がそれを押し潰してしまう。
結局、いつまで立っても中国の農村は貧しいままだ。

王朝末期に農村から発生する反乱は、
中国名物だが個々の地域の自立の流れはない。
日本の江戸時代の一揆が条件闘争に近いのに対して、
中国の反乱は飢餓等で追いつめられ、
どうしようもなく立ち上がった感がある。
通常はたちまちのうちに鎮圧されるだろうが、
うまく武器などを手に入れると、都市を制圧して広がっていく。

ここで重要なのは、都市を制圧しないと武器を手に入れられない事だ。
日本の農村が日常的に武装しているのに対して、
中国の農村は通常は武装していない事になる。
実証研究していないから、そんなイメージを持っているだけだが。

中国は広いから、日本の古代の京都に値するような都市が各地にある。
そこには城壁があり、農村からの余剰農産物が蓄えられている。
都市自体は時代の進展につれて、各種技術が向上し豊かになっていく。
しかし、農村にはその恩恵が回らない。
余剰をすべて収奪されてしまうからだ。
余剰がなければ、資本として投入できないので生産性が上がらない。

結局、中国の農村はついに自立する事ができなかった。
明清の時代には鉄砲の時代になり、武装に要する手間が更に上がり、
逆に中央権力の軍事力が強化される事によって、
農村は戦う術を失っていく。
これが中国で中世が起こらなかった理由だ。
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古代と中世をわかつもの - 理想国家としての日本(その6)

2008.10.24 Fri

04:37:12

西暦1200年ごろ鎌倉幕府ができて、武家が優位に立つまで、
天皇家は日本の権力を握っていた。
西暦400年ぐらいに日本をほぼ統一してから約800年、
古代と呼ばれた時代である。
鎌倉幕府以後は中世になるが、
この古代と中世を分ける政治変動を引き起こした原因はなんだろうか。

結論から言ってしまうと、荘園における生産性の向上が、
小さい単位で軍事力を保持する事を可能にし、
その軍事力を編成する事によって、従来の権力構造を崩壊させ、
新しい権力構造が生まれたのだと思う。

古代の軍事力は当初極めて弱かった。
生存に必要なもの以外の余剰は少く、武器は満足に揃わない。
戦闘要員も独立した人間を持てないので、
最初の争いでは共同体全員が戦いに加わって行なわれただろう。
小さな地域が大きくなっていくにつれて、
ある程度専業とした軍事力が作られ、鉄を武器としていく。
大和王朝は、この流れを作り出す事によって他を圧倒していった。

大和王朝が技術者集団を各種保持している事から、
各地域の農村では、そのような技能を持つ人間は存在せず、
余剰農産物と人員のみを中央に供給していたと思われる。
戦闘要員は、農村から徴集された人員が武具を渡され、
訓練を受けることによって生まれた。
逆に言うと、各地域自体は戦闘能力を持たず、
中央からの指示に従わざるを得ない状況だった。

日本の歴史では、
当初農民の反乱がほとんど起こらなかった事は、これが理由だろう。
古代に起こった日本の反乱は、
ほとんどが権力者同士の争いで、下層の人間はいない。
943年の藤原純友と平将門の乱は地域から起こった始めての事件となる。
この事件が起こった背景には、各農村の生産力が向上し、
地域ごとに軍事力を持てるようになった事情がある。
当初は中央からの指示に従わざるを得なかった地方も、
生産力の向上で武具を自前で揃える事ができる。
馬も持てるようになる。
各地域ごとに軍事力を保持し、中央の横暴に戦う事ができるようになる。
中世の本質はここにある。

それよりも早く土地制度に大きな変化があった。
古代では耕地は国有地であり、
農民は耕作すべき土地を与えられ、収穫物を納める、
言われたままに働くしかない存在だった。
それが、荘園制の普及と共に変わっていく。
個人で開墾をし成果物を納める事ができるようになった。

つまり、現在では派遣契約から請負契約に変わったような物だ。
請負契約では創意工夫によって生産性を伸ばす事が可能になる。

請負契約と軍事力の保持は、生産性の向上が、
即農民の利益につながる社会を生みだした。
これが中世といえよう。
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日本古代は帝国モデルか? - 理想国家としての日本(その5)

2008.10.23 Thu

04:15:31

落穂拾いになるが、日本古代は
帝国モデル
かどうかのテーマを考えておきたい。

国家の起源
で述べたように、国家は極めて小さい領域から生まれた。
現在で言えば村ぐらいのレベルだろう。
しかし、そもそもの国家の発端が戦争のためである以上、
戦争に勝った方が領域を拡大していくのは当然と言える。
この段階では戦争に勝った場合、大きな利益があっただろう。
負けた国の民を奴隷にする事によって、少くとも支配層の生活水準は向上する。
負けた場合の悲惨さの恐怖と、勝った場合の利益に対する欲望は、
戦争を先に仕掛ける事を当然とし、戦いが広がっていく。
結局、回りに敵がいなくなるか、
戦っても容易に決着がつかない敵と対峙する状況になる。

日本の場合、この時期は全国統一をほぼ達成し、
朝鮮半島に兵を出した頃になる。
神功皇后による三韓征伐の頃だ。
中国の場合は、秦による統一を達成した時期となるだろう。
しかし、秦は私の考えでは帝国モデルの典型である。
そうすると、日本の統一を標準モデルと解釈した場合、
理論の間にどう整合性を取るかが問題となる。
そんな事はどうでもいいという考えもあるだろうが、
まあ、なんというか理論として綺麗にしたいのだ。

考えているが、なんか、うまく結論が出せない。
問題提起した所で停止して、結論が出た時点で続きを書く。
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