異をとなえん |

なぜ内需は回復しないのか?

2008.09.12 Fri

20:41:42

日本経済は内需中心の成長をしなくてはいけないという意見が、
そこかしこに見られる。
既に景気後退に入ったと言われているが、今回の景気回復は、
輸出依存の経済成長でアメリカの景気に依存している。
そのため、アメリカの景気が後退すると日本の景気も後退してしまう。
それではまずいと言うことから、内需中心の成長という意見が出てくる。

日本は、なぜ内需中心の成長ができないのだろうか?
この答は簡単だ。
所得が増えてないからだ。
では、なぜ所得が増えていないかと言うと、賃金が上がらないからであり、
さらに、賃金が上がらないのは労働力が過剰だからだ。

賃金が上がらない理由として、
最低賃金が低すぎるとか、非正規雇用が増えているからだという意見もあるが、
本質的には関係ない。
労働者に対する需要が供給を上回るようになれば、賃金は上昇するはずなのだ。
非正規雇用が問題だと言っても、
それは非熟練労働者の賃金が低いままだからであり、
労働市場が逼迫すれば、長期契約の労働力より短期契約の労働力の方が、
賃金上昇は早くなる。
そうなれば、企業はより有利な条件を求めて、短期契約=非正規雇用より、
長期契約=正規雇用に切り替える。
現在、日本で非正規雇用が多いのは、賃金が低いままの状態で固定しているために、
需要の変化に応じて弾力的に雇用できる不正規雇用が、
企業にとって有利だからに過ぎない。
過剰労働力がなくなり、需要の増大が賃金にそのまま反映するようになれば、
自然に解決する。

では、なぜ過剰労働力はなくならないのだろうか?

それは資産バブルのもたらした深い傷のためだ。
資産バブルが崩壊すると、需要が急激に減少する。
資産インフレによって発生していた見掛け上の利益がなくなるので、
消費できなくなるからだ。
需要の減少は過剰設備、過剰雇用を生み、企業の利益は急激に減少し、
企業は首切り、リストラに励まざるをえない。
解雇された労働者は消費を抑え、更に需要は減少する。
また、解雇されない労働者も賃金を下げられてゆく。
経済は縮小していく。
しかし、当然のことながらある時点で均衡状態に達する。

この縮小均衡した状態から、経済は回復していくのだが、
これはなかなか困難である。
理由は二つある。

一つは新規の需要回復が難しいからだ。
資産バブルで生まれていた需要は、
労働力の代価が要らずに手に入ったあぶく銭のようなものだ。
そのため、自分の労働時間で計算した場合には、
とてつもなく高くなる商品でも買ってしまう。
通常だったら労働時間500時間分の金額で車を買うのに、
1000時間分の金額で車を買っているという事だ。
そのため、縮小均衡した状態から経済が回復しても、
正常な感覚に戻った消費者にそれらの製品は全く売れない。
そして、失業者が多い状態では労働者は財布の紐を締めるので、
労働時間500時間分の金額の車すら買うのを控えるようになる。

この状態を解決するには、
新技術や新しい発想で画期的な製品を生み出すしかないが、
それは簡単にはできない。
何年もかかるだろう。
バブルの時代、楽に過ごしていた分苦労する事になる。

新規の需要が増えない以上、雇用は増えない。

もう一つの理由は、生産性の改善が過剰労働力を生むためだ。
新規需要の創造が難しい以上、企業は生産性を改善して利益を生みだそうとする。
生産性の改善は技術上の問題が、はっきりしているために、達成しやすい。
普通ならば、生産性の向上自体が価格を下げ、需要を刺激して、
雇用の改善を生みだす。
しかし、景気の悪い状態では、
価格を下げるより赤字を解消する方向に進みがちだ。
結果、生産性の改善が過剰労働力を生みだしてしまう。

このように過剰労働力のある経済では成長が難しい。
それに対して、均衡状態の経済では、新市場の開拓があれば、
良い循環が生まれる。
新市場の開拓があれば、需要は増加する。
結果、企業は利益が増え、生産を増やし、労働者の雇用を増やす。
それはさらに、労働市場の逼迫をもたらし、賃金を上昇させ、
所得を増加させる。
所得が増加すれば消費は増え、需要が増加して、
このループが続いていく。

それに対して、過剰な労働力が存在している場合は、
新市場の開拓があって需要が増加しても、
余剰労働力を吸収することで賃金は上昇しない。
その結果、消費が目立って伸びる事はないので、
正の循環は発生せず成長は単発的なものとなる。

これが今の日本の状況である。
しかし、現在の日本経済は少しずつだが、過剰労働力がなくなる兆候が見られる。
次にその事を検討してみたい。

この項続く。
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外国人の「私の見た日本」コラム

2008.09.12 Fri

04:01:07

2ちゃんねる経由で
京都国際文化協会エッセーコンテスト≪私の見た日本≫
を読む。

どの作品もどちらかと言うと読みづらくて、
外国人が自国語でない文章を書く苦難を感じる。
同時に自分だったら、こう書くというイメージが浮かんで、
逆の意味で参考になった。

個々の作品では、一番気持ちのいい作品として、
2006年の「日本のお風呂と私」
を挙げておく。
お風呂が気にいったという素朴な話だけど、
日本人としてはイギリスの風呂があまり好きでなくなった
書き手の気分がよくわかる。
最後のしめがうまくて気にいってしまった。

あまり、気持ちのいい作品ではないが、
次の二つは書き手の感情を感じる事ができた。
そういう意味ではうまい作品と言える。

2003年の「友情という保険」

2007年の「私は内部に入っても大丈夫?」

異国へ行けば、多くの人間が疎外感を感じる。
二人の意見は感情論に見えるが、被害感情を抱きがちなのは仕方がない。
日本人としては、
外国から差別する国として見られがちなのを理解して行動したい。
全ての外国人の見方が日本差別の国ではないだろうが、
その考えは連綿としてある。
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