異をとなえん |

人民日報のすすめ

2013.01.28 Mon

21:40:56

人民日報のすすめというと、何か政治的な話かというと、全然そんなことなくて、単なる中国語学習の話。

中国語の文章は漢字でできているのだから、日本人だったらそれなりに読めるかというとそうでもない。
簡体字が略されすぎていて、元の字がわからなくなっているからだ。
そんなのちょっと勉強すればわかると言う人がいるかもしれないが、そうまでして知りたくない人もいるだろう。
少なくとも私がそうだった。

ところが、最近気づいたのだが、人民網日本語版には、中国語と日本語が同時に載っている中日対訳の記事があるのだ。
右下に中日対訳の記事のリンクがある。
これで中日対訳の記事を読むと、簡体字の元の漢字が大体わかる。
そうすると、中国語の文章もなんとなくわかる。
後は文法さえわかれば、中国語の文章を理解するのも夢ではないかもしれない。
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会社の公用語を英語にするなんて成功するの?

2012.07.10 Tue

20:31:33

楽天が会社の公用語を英語にした。
賛否両論がネット上で氾濫している。
私は否定派で、どう考えても楽天のやり方は無理だと思っている。
その考えを記事にしてみた。

まず前提として、グローバリゼーションはますます影響力を増していくこととする。
日本企業も売上や利益を伸ばすためには、海外への進出が必須になっている。
英語ができる社員でないと出世は望めず、みんながみんな英語を勉強したがって仕方がない状況だ。
この前提は怪しいと思うのだが、この状況でもうまくいかない、いやむしろこの状況だから余計うまくいかないことを主張したい。

英語をできる社員がいかに必要になったとしても、日本人全員が英語をできるわけがない。
楽天は全ての従業員の尻をたたいてマスターさせるみたいだが、日本の全ての企業では無理だろう。
だからどうしても落ちこぼれは出てくる。
今日本人で英語を実用的に使える人は5%も怪しいと思うのだが、20%ぐらいまで伸びるとしよう。
80%が実用的には使えない日本人だ。

そうすると英語を実用的に使える人たちは明らかにエリートである。
日本国内で日本語しか使えないで働く人たちは一段下の従業員になるということだ。
感覚的に言うと英語使いは博士であり、日本語しか使えない人たちは高卒の小売店の販売要員だ。
問題なのは、楽天の全ての社員が英語を使えるようになるということは、博士が小売店の販売しているのと同じということだ。
博士並の技能を持っている人たちを小売の販売要員並の給料で雇えば、全員やめてしまう。
逆に小売の販売要員の仕事をしている人たちに、博士並の給料を払えばその企業は競争力を持てなくなるだろう。

楽天は英語力をアップのために多額の投資をしているけれど、その技能が本当に役立つのだとしたら、どう見ても引き抜きがある。
外資系企業は英語ができる人材に対して、より多くの給料を出している。
日本の会社だとあからさまな他社からの引き抜きはやらなくても、外資系の会社はそんなことは気にしない。
三木谷さんは従業員が会社に忠誠を持つことを期待しているのかも知れないが、そんなのは無理だ。

楽天が英語公用語でうまくいくには、googleみたいに知能が高い従業員ばっかりにして、販売要員を持たないような会社をしなくてはならない。
それならば成功する可能性はある。
でも楽天はネット企業だが、中小企業の面倒を見てきたから成功したというイメージがある。
楽天市場に出店している企業のメインテナンスが、主たる仕事だと思うのが違うのだろうか。
消費者と出店企業の間に発生した、小さなトラブルを速やかに解決していく。
情報のやり取りは当然日本語でなければならない。
しかし英語ができない社員でもやれるのだから、楽天の社内的には当然レベルの低い仕事になる。
ここに英語をマスターしている従業員をあてるのはどう見ても過剰な能力を持たせることだ。

以上が英語の楽天の英語社内公用語化がうまくいかない理由だ。

最初に戻ると、英語能力はエリート社員には必須な能力だと仮定した。
しかし英語能力がそれほど重要でない場合はどうだろう。
英語をできようができまいが、給料は変わらない状況だ。
本当にこんなことがあるかとも思うのだが、「同じ職業でも国によって希少価値が違う」を見ると日本の同時通訳は中国に比べるとそれほど時給が高くないみたいだ。
それでも時給1800円で普通の時給の仕事と比べると高い。
中国が極端に同時通訳の仕事の給料が高いのであって、日本でも英語能力は評価されていると見るのが妥当だろう。

あるいは今後日本経済が不振で、外資系企業が日本に全然進出してこない状況になり、英語能力が引き抜き対象にならない状況はどうだろう。
その場合、日本企業の海外進出は止まらないだろう。
英語と日本語ができる社員は重宝される。
やはり引き抜かれる可能性は高くなる。

英語公用語化へのチャレンジは会社の成長の失敗になるかはわからない。
英語公用語化はうまくいかなくとも、途中で方針を変更して、必要でない部分は日本語のままにすればいいのかもしれない。
エリート社員は英語公用語、ローカル採用は日本語のままというわけだ。
私にはこの方向に変化するしかないと思う。
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日本語論の難しさ

2011.10.18 Tue

20:48:20

中国関係で本を出している津上氏のブログで少し面白い日本人論があったのでリンクしておく。

森有正の「日本語・日本人」論(学習ノート)

長編で、かつ最初は哲学的なので、ざっと見しかしていない。

言語が思考を規定するというのは正しいだろうけど、具体的に意味のあることを言えるかは難しい。
自然言語である以上、たいていのことは同じように言えるはずだ。
長い年月をかけて組み立てられた自然言語の中核は、どんな言語でも大きく違うことはできないように思える。
前にも書いたが、違いが出てくるのはここ2000年ぐらいに導入された数値表現と文字ぐらいではないだろうか。
それ以外については、はっきりしたことが言えるかどうか、かなり疑いを持っている。

たとえば、日本語の語順が欧米語と違うのは、相手との関係に応じてニュアンスを変更しやすいからというのはどうかと思う。
言語の語順は欧米型と日本型に大きく分かれていて動詞が最後にくる言語は山ほどある。
それらの言語が日本のように相手との関係を重視しているかというとかなり疑問である。
朝鮮語も日本語と同じ語順だが、日本と韓国との対比した論述を読むと、韓国の方が欧米に近いという意見の方が多いように感じる。

結論がはっきりしないという日本人独特の特性は他の国にもある。
日本人が外国に行ってあいまいに答えられて困ったという感想をよく読むからだ。
つまり、はっきりと答えにくい問題に対しては、言語と関係なくあいまいに表現してしまうのは、よくあることではないだろうか。
ノーと言うのをオブラートに包むのは、言語表現の一つであって大きく日本人論に発展させるのは難しい。

人の意見に文句を言うのは簡単だけれど、自分なりの日本人論を書こうと思っている以上、論理性などについて言語の示唆が得られるのは役立った。
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「日本人にとって英語とは何か」感想

2011.10.17 Mon

20:49:06

「日本人にとって英語とは何か」をざっと見る。


最初に、算数教育において日本語が有利で英語が不利な話が出てくる。
数の概念が十進法で統一されている日本語とどちらかというと十二進法の英語では、算数の理解の速度に差があるという話だ。
これは前に書いた記事の具体的な例で、下記のような内容が語られる。

日本では数の表現が十進法に統一されていることで、十の位で繰り上がりになることを簡単に教えられる。
それに対して、英語では数の表現が十二進法になっている。
そのため、英語圏の子供では十の位で繰り上がることを理解させることが難しいらしい。

また、日本語では数字の読みが中国風の読み(いち、に、さん等)、日本古来の読み(ひとつ、ふたつ、みっつ等)、その省略形(ひ、ふ、み等)といろいろある。
そのため、年号などいろいろな数字を暗記するのが楽にできる。
なくよ(794)うぐいす平安京などだ。
また、九九も簡単に覚えられる。

日本人の算数の能力が高いのは、この力がおおいにあるらしい。

それに対して、英語圏ではそもそも十進法の概念を理解させるのに苦労しているらしい。
ten、eleven、twelve、thirteenときたら12で桁が繰り上がっていて、なおかつ13は10+3といった表現になる。
子供にはわかりにくいのだろう。
ヤードポンド法も大体十二進法だから、十二進法のかけ算が必要になる。
でも、日本語みたいに語呂合わせによって覚えられないから、数式をそのまま暗記するしかない。
英語圏の小学生の算数の成績が悪いわけだ。

この話は面白い。
後の話はこの話ほど納得できるものはないけれど、それなりにためになる感じがする。

大体おすすめ。
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中国ではアフリカを非州と表記する

2011.08.08 Mon

16:07:57

中国でのアフリカの表記が非州というのを、最近ネットだか本だかで知って、あまりの無神経さに愕然とした。
たぶん、悪意からやっているのではない。
単にアフリカの漢字表記の意味など気にしていないだけだ。
その発音で一番使われている文字をそのままあてはめる。
それが中国にとって普通のことなのだ。
でも、漢字の意味を気にする人にとっては、美称でなければ、それだけで侮辱されている感がある。

日本が「倭」という国名を嫌って日本に名称変更したのも、それが理由だろう。
矮小とかいう言葉の語感から、中国人が倭とつけたとは思わない。
単に「ワ」という名前の国だから、それと発音があてはまる「倭」という文字を当てただけだろう。
なぜ、日本が「ワ」の国かというと、中国人が日本人に国名を聞いたとき、どんな国かと聞かれたと思ってわれわれの国という意味で我(ワ)の国と答えたかららしい。
そういう説がある。
漢字の意味などよくわからない内は、倭といっても別に気にならなかった。
でも、漢字の意味が理解できてくると、倭というのは気になってくる。
矮小という言葉からつけたのではないかと邪推するようになる。
呼ばれる国からすると貴字でなければ、それだけで軽んじられている気がするのだ。
実際、東方の未開な国の国名など、中国人にはほとんど興味はなかっただろう。
そして、無関心なのは侮辱されるより、ある意味ずっと屈辱的ではある。
そこで、昔の日本人は格好いい名前として、日本という国名を考え出し、中国になんとか認めてもらった。
日本は日の本、つまり太陽の出づる所の国と、ある意味物凄く傲慢な名前である。

同じようなことが中国にも言える。
中国では最近まで王朝名はあっても、地域名がなかった。
だから、中国史という概念を表す言葉がなかったわけである。
もちろん、中国史というのは夏などとあるかどうかはっきしない国の歴史から始まって、現在の中華人民共和国の歴史まで全体を含めた歴史である。
中華人民共和国史だけを指すわけではない。
そこで、日本は江戸時代、中国という概念を現わす言葉として、支那という言葉を使いはじめた。
支那というのは漢訳仏典に使われている言葉で、秦ということばがなまってシーナと外国が中国を呼び、それに中国人が漢字をあてたのである。
シーナという音をあらわす漢字として、支那とつけたけど特に意味は考えなかった。
地域名などほとんど使っていないのだから、気にすることもない。

日本は地域を使う名前として支那を使い始めていったけれど、中国人はそれを気にしていなかった。
日本が中国をどう呼んでいようとどうでもよかったに違いない。
けれども、清が滅亡するころになると、中国は日本に留学生を大量に送っていて、日本が中国をどう呼ぶのかが気になってくる。
日本に対して劣等感を持つころには、支那という言葉が我慢ならなくなってくるわけだ。
支というのが、侮辱しているような文字に思えてくる。

清が滅びて、中華民国という国が生まれると、地域名として中国という名称を使うように日本に要求する。
中華というのは世界の中心で栄えているという意味であって、他者から呼ばせるには尊大すぎる。
自分の姓を「世界一位」とかにして、人から呼ばせるようなものだ。
だから、最初日本は嫌がった。
けれども、同じ文字を使う国の民として意味の意識が鈍ってくると、受け入れざるを得なくなる。
使わないのは明らかな敵意の現れと受け取られるからだ。
中国という略称にすれば、中華という語感はほとんどなくなるのも大きかったろう。
また、昔日本が国名変更を中国に認めさせたという意識もあったはずだ。

中国語でアメリカは美国、イギリスは英国、フランスは法国、ドイツは徳国だ。
見た目には、いい文字が使ってある。
それに比べてアフリカが非州というのは、本当に無神経である。
漢字を知っている日本人からすると、もう少しまっとうな字がなかったのかと思う。
たぶん、多くの日本人は中国がアフリカを馬鹿にしていると思うだろう。
そう考えると、表意文字は厄介なものだ。

表意と表音、両方の文字を使える日本は便利だ。
少なくともアフリカに漢字の名称を与えて、そこからアフリカに対してどんな気持ちを抱いているのかを邪推される心配はない。
まったく、アフリカ人が中国語の勉強をして、自分たちの地域が非州などど呼ばれているのを知ったとき、どんな気持ちになるのかを考えると、他人事ながら中国を気の毒に思う。

中国がアフリカを非州と呼んでいる衝撃で文章を書いてみたが、なんかあまりまとまりがつかなかった。
漢字の意味を考え始めると、中国語では表記の問題はいろいろ大変だという話なのかもしれない。
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言語に優劣はある

2010.11.25 Thu

03:03:19

言語に優劣はないという意見を見かけることがある。
しかし、私には言語に優劣がないという理屈はおかしく感じられる。

コンピューター言語では、アセンブラで書くのと、Rubyで書くのとでは生産性に多大の違いが出る。
自然言語においても、情報伝達の効率や処理に、言語の違いによって変化が出るのは当然のはずである。
たとえば、自然言語でも、その言葉の全てを0と1のビットに変換して、伝達していたら人間はコミュニケーションできないだろう。
それ以前に、0と1のビット列など元に戻すこと自体が一苦労である。

極端な例を出したが、自然言語にだってコンピューター言語と同じような情報伝達と処理効率の差はあるはずだ。
たとえば、言語の語彙には言語ごとの特徴がある。

アラスカの原住民の言葉では、雪に関する言葉がたくさんあるというなどは有名な話だ。
と書いて、ネットで検索してみたら、どうもこれは与太話らしい。
参照:なぜ本屋でトイレに行きたくなるか: エスキモーの表現する雪
そこで例を変える。

アラスカの原住民の言葉では、アザラシに関する言葉が豊富にあるらしい。
それらは、使うことが頻繁にあるから、成立しているわけで、そうでない言語で同じ内容を話せば冗長になるのは当然だ。
効率は当然環境依存になる。
アザラシに関する言葉の処理効率が良くても、その言語が優れているとは言えないだろうが、アザラシに関係する情報を処理する場合などと条件をつければ、言語の優劣は判断できるはずだ。

同じようなことはコンピューター言語にも言える。
FORTLANは科学技術計算で膨大なライブラリがあり、計算の最適化の技法も進歩している。
だから、言語の基本的な使い勝手とは関係なく、科学技術計算ではFORTLANを使うことが多い。
その場合には科学技術計算において、FORTLANは言語として優れているという話になる。

自然言語も情報処理のためのツールとして比較可能であるはずだ。
けれども、自然言語では、その差異はあまり大きくはない。
自然言語はできてから物凄い時間がかかっている。
人間に言語が発生してから、ざっと1万年は経っているのではないか。
コンピューター言語が人工的に作られて、長くても50年やそこらとは比べものにならない。
そして、自然言語は自然に発生してから、人間の間で使われることによって、自然に進化してきた。
緊急情報の伝達は短かくわかりやすいようになっただろう。
いや、言語の発生は緊急情報の伝達こそ要だったはずだ。
獣が仲間に襲いかかろうとしている時、その危険を知らせるためにまず言葉が発生した。
それは短い叫び声だ。
その後、段々と情報を付加できるように言語は発展していったことだろう。

自然言語は、その自然の錬磨によって、基礎語彙と呼ばれる200語程度の情報の伝達においては、ほとんど効率に差はない。
文法の難易度とか、文法の例外の多さみたいな問題も、言語の処理効率に関係してきそうだが、一方で得をすると、一方で損をするような関係が成り立ちそうで、全体で考えると、やはり効率に差はないと思う。
私はそう考えている。
だから、自然言語には基礎的な部分において優劣はない、というのは正しい。

しかし、効率に差がないのは基礎の部分だけで、更に付加されてきた部分には適用できない。
付加されてきた部分とはいろいろあるだろうが、もっとも重要なのは、数と文字だ。
これらは特別な環境とも言えるが、現代では対応すべき必須の環境だ。
数を使わなければ、文字を使わなければ、それ以外の部分では他の言語と効率は同じだと言っても、残念ながらもはや現代では役に立たない。
現代の言語においては、数や文字を効率良く使いこなせないのなら、劣っていると断言できる。

数については、石原慎太郎のフランス語発言で有名になったように、フランス語は99を表わすのに、20が4つに10足してさらに9を足す、とか表現する。
不合理極まりないと思うのだが、このような効率の悪さが残るのも、数という概念が言語に取り込まれたのが、遅かったからだろう。
あるいは、数の言葉が生まれた頃が、文字が生れてくるのと同じ頃で、文字によって古い言葉を保持し続けたのかもしれない。
フランスは先進国として発展しているのだから、致命的な問題ではない。
けれども、数の処理効率が少し低下しているのは明らかだろうに、これによって得をする部分もないように思える。

もう一つ文字の効率がある。
日本語は漢字、カタカナ、ひらがなと三つの文字がある。
この三つの文字を併用することによって、文章を読む時の効率は他の言語に比べて優れていると感じる。
他の言語と言っても、私は英語しか読んだことがない。
後はまだ漢文だけだ。

私は日本語ネイティブで後天的に英語を学習した人だが、英語と日本語の文章の読み易さを比較すると日本語の方がずっと読み易い。
英語もかなり慣れてきたつもりだが、それでも絶対に同じ領域になれるとは思えない。
日本語と英語の間に読み易さの差があるのか、それとも単にネイティブの言語の方が読み易いだけなのか、私はずっと疑問に思っている。
日本語以外の言語ネイティブで後天的に日本語を学習した人が、両方の言語の文章の読み易さを比較したら、どのような結論を出すだろうか。

中国語と日本語を比べてみると、中国語の方が日本語よりずっと圧縮されている。
通信する情報量が少なくても済むという利点はあるが、現在は通信量よりも、人間の処理効率の方がずっと重要だ。
その点遊びのある日本語の方が、効率的に思える。

日本語は読む方の効率は優れているとしても、そのための副作用はないだろうか。
書く時の効率は表音文字よりも明らかに劣っている。
コンピューター時代の前は、タイプライターが普通の人に使えないという点で、日本語はむしろ劣っていると見られた。
しかし、かな漢字変換によって書く方の効率は大幅にアップし、問題点はなくなった。

もう一つ副作用として、会話の効率の悪化がある。
日本語は同音異義語の大量発生によって、会話での効率は悪くなっているだろう。
ただ、文章による情報伝達の重要性に比べると、音声のそれは落ちると見られる。

日本語の文章の読み易さが他の言語より優れているかどうかは、難しい問題だ。
結論が簡単に出るとは思えない。
あるいは、条件を一定にすることが難しいことを考えると、永久に出ないかもしれない。
また、文章による読み易さは優ったとしても、その他の副作用で帳消しにする考えもあるかもしれない。
これらの点を比較考慮して判断するのは難しいだろうけれども、不可能とは思えない。

まあ、日本語が優れた言語かどうかは、今回の記事の主題ではない。
自然言語の優劣というのは、数や文字のレベルまで含めると十分ありえることを主張したいのだ。

余談、本題と全然関係ないのだが、国語という科目名を日本語に変更すべきという意見がある。
どちらでも構わないような気はするが、漢文は日本語に入るのだろうか。
私の感覚では漢文は古代文章中国語であって、日本語ではない。
国語が日本国民が知っていた言葉を意味するのなら、古代文章中国語と日本語、両方合せて国語で正しいと思う。

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義之と書いて、何と読む?

2009.07.13 Mon

03:45:20

きょう目を通した本の中で、ちょっと面白かった話。

下記は万葉集の歌の一首だが、義之の部分が後世では解読できなくなっていた。

印結而(しめゆいて) 我定義之(わがさだめてし) 住吉乃(すみよしの)
浜乃小松者(はまのこまつは) 後毛吾松(のちもわがまつ)

羲之の部分を最初は「こし」と読んだのだが、
他の羲之と書いてある部分と照らし合わせると「てし」と読むしかないことを、
賀茂真淵が解明した。
しかし、なぜ「てし」と読むのか、その理由がわからなかった。
その理由を下記のように明白に解明したのが、本居宣長だった。


我が定め義之(三・三九四)
結び大王(七・一三二一)

「義之」「大王」をテシ(…てしまった)と読みます。その根拠を明快に説明したのは、本居宣長です。義之は羲之の誤りで、四世紀の中国の書家の王羲之のこと。書家だから手師(てし)。羲之の子の王献之も有名な書家だったので、父を大王、子を小王と区別したから、「大王」も羲之のことで、同じくテシと読むというのです(万葉集玉の小琴)。

第13 回 万葉集の戯書より引用。

万葉学者はこういうパズルみたいな物を、
必死になって解読してきたわけで、感心してしまう。
万葉仮名は自然発生した物だから、作り手が面白いと思えば、
読み易さなど考えずにできてしまうわけだ。

万葉集が作られた時代の頃も現在も変わっていない。
最近は見かけないが、
2ちゃんねるで「香具師」という言い方が流行ったことがある。

ヤツをヤシと間違えて、
それを再度漢字変換するというかなり凝ったテクニックだ。
後世の人が解読するのに大変そうな代物の気がする。
資料がたくさん残っていれば、たいしたことないだろうけど、
これだけだったら難しい。
本質的な問題点として、香具師を何と読むのが正解かという問題もある。
私は「やし」と発音してしまうのだけど、
2ちゃんねる上で出る時は「やつ」と発音する方が正解なのだろうか。
漢字の正しい読み方は決まっていないという話に、変化してしまいそうだ。

ネットの掲示板とかは公の場でないから、
書き手と読み手相互の正しい理解というより、面白さが優先される。
だから、万葉仮名は公の場というより私的な場で自然発生したものであり、
洒落やユーモアと言った精神に包まれていたことを示唆する。
始まりの混沌に近づくと、日本文化の根底に、
軽さといったものがあることを示していて、
古代人の精神にちょっと思いを馳せてしまった。
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