異をとなえん |

「国民国家」は終焉を迎えているのか?

2013.06.22 Sat

20:10:24

境界がゆらぎ崩れていくなかで葛藤が起こっている時代という記事を読んだ。
「国民国家」は終焉を迎えるという主張に疑問を持ったので、反論してみる。

記事の直接の内容は、佐々木俊尚氏の「レイヤー化する世界」の書評だ。
その中で佐々木氏の主張でもある、「国民国家」が終焉を迎えつつあるという主張に同調する形で意見が述べられている。
「レイヤー化する世界」はぱらぱらとめくってみたのだが、どうも意見がピンぼけしているようで、私には具体的に何を主張したいのか焦点が見えなかった。
この書評では「国民国家」が終焉を迎えることに主張がしぼってあるので、反論してみる。

「国民国家」が終焉する理屈は、世界が「場」によって変化し個人が国民国家の境界を越えて動くようになるので、国民国家の重要性が薄れるというものだ。
「場」とかの意味はわかりにくいのだが、下記に引用している部分を読むとなんとなくわかる。

引用開始

佐々木俊尚さんがおっしゃる「場」とは、たとえばサッカーならサッカーが「場」になってきます。そこにいくつものレイヤー(層)が重なっています。J1やJ2といったレイヤー(層)があったり、海外リーグのレイヤー(層)があって、選手たちは異なるレイヤーの間を行き来しています。

(中略)

選手たちはサッカーという「場」で、あるときはヨーロッパリーグというレイヤー(層)、あるときはジャパン代表という「レイヤー(層)」、あるときはJリーグというレイヤー(層)を行き来しているのです。こういったあり方は、ウチとソトが分かれた「国民国家」が主役の時代ではあまり一般的ではなかったことです。
引用終了

要するに、人がいろいろな多面性を持って活動している、それだけの話に見える。
昔は国をまたいだ多面性は珍しかったが、現在ではそれがありふれているということだ。
ただ、多面性を持って活動しているといっても、それは経済的な活動に限定されているのではないだろうか。

「国民国家」の本質は安全保障だと考えている。
外敵から防衛や社会保障だ。
外敵からの防衛は中世だと封建領主によって守られていたこともあるが、歴史を通してほとんどの場合国だった。
社会保障は昔は国の担当範囲ではなくて、家族や宗教団体が担っていたこともあるけれど、近年では国が主体となっている。
これらの安全保障の特徴は、交換によって双方が利益を得ることができる経済関係ではなく、ともすれば贈与によって一方だけが得をする関係ということだ。
防衛活動は健康な男子が主としてたずさわり、共同体が生きのびるならば彼らがほとんどの損を引き受ける。
社会保障も金持ちが貧乏人に対して援助する側面が大きい。
つまり、安全保障は経済活動のような対等な関係から生まれるものではなくて、家族や社会共同体といった連帯感を持った関係でしか成立できないということだ。
現在では「国民国家」がその連帯感を持つ関係に適しているので、世界に広がっている。

「場」という概念は理解した限り、経済関係でしかない。
サッカー選手が急に失業した場合には、サッカー業界が保険みたいなものは提供できるかもしれない。
けれども業界自体が不況によって崩壊すればダメになることもありうる。
誰であろうとも急に困った場合に助けてくれる組織が必要だというのが、普遍的な考えではないだろうか。
その組織というのが「国民国家」ならば、必要性はけっして薄れないだろう。
そして私には、現在「国民国家」以外にそれを担える組織はないように思う。

「場」にはSNSのような交換の関係でもなく、贈与の関係でもない関係が含まれるかもしれない。
社交的な関係とでもいうのだろうか。
ただ、それはいざというとき社会保障の代わりになるのだろうか。
擬似的な共同体には慣れても、地域性がなくては緊急時に助け合うことはできないだろう。
普段からリアルに会っているならば普通の友人と同じことだ。
それだけでは、今の社会保障の代わりにはならない。

戦争がなくなり、個人がホームレスになることなど起こらない時代になれば、いざというときの最後の助け手である「国民国家」は必要なくなるかもしれない。
けれども、少なくとも今はホームレスがいる時代だ。
そのような環境で「国民国家」は終焉を迎えない。
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社会はほんの少数の人間で変わってしまう

2012.11.27 Tue

21:26:33

金属に少量の別の金属を加えると、性質が全然違ってしまう。
社会にもそういう現象がある。
犯罪者などはその典型のような気がする。

日本では自動販売機が非常に普及している。
外国人に言わせると、自分たちの国で自動販売機が広まらないのは、すぐ壊され盗まれてしまうかららしい。
納得できる意見ではあるが、どれほど日本と外国とで犯罪率に差があるのだろうか。
たぶん外国も日本も犯罪者はほんの少数だろう。
けれども1%ぐらいの差で自動販売機が普及するかしないかの差が出てくる。

少し前、日本で家に盗みに入る例が多かった。
鍵の更新という話が広まっていた。
最近は減っている。
たぶん、ほんの少しのグループが盗みの活動をした。
それだけの話なのだろう。
そしてほんの数十人の活動で、そこらじゅうの家で鍵を複数つけるとかの行動を取った。
ほんの数パーセントの違いで劇的な変化が出る例だろう。

つまり何が言いたいのかというと、日本人と外国人はたいして変わらないという意見がある。
私も人間なんてたいして変わらないという意見の持ち主なので、基本的には賛成なのだが、だからといってほんの少数の人間の違いも無視することはできない。
上の例のように、劇的な違いを生むからだ。

社会の中で暴力的な人間がそれほど多いとは思えない。
でも、暴力を簡単に振るえる人間を人々は怖く思うので影響力は大きい。
中国の反日デモに対して、ほんの少数の人間がしているだけという意見がある。
でも、社会がそれを取り締まらない限り、暴力を振るえる人間の力は非常に大きい。
「北斗の拳」のマンガではないけれど、社会システムが崩壊すれば、人間は暴力を振るえる者に従ってしまう。
彼らこそがある意味、社会を動かすのだ。
アフリカの内戦でも、そんな状況が現出している。
もちろん暴力を振るう者も、より幸せに暮らすためにきちっとした社会を構築していくはずだから、いずれは安定した社会は構築できると信じている。
でもそれまでには時間がかかる。

つまり無政府状態が安定した社会に変化するまでには時間がかかるし、その間の社会の雰囲気はだいぶ違うはずだ。
その差というものが、犯罪者が国民に占める率の1%ぐらいの違いではないかと思う。
1%がたいしたことないと思っても、たとえば日本では常習犯罪者が1%だと100万だが、2%だと200万という話になる。
残りの国民の%で見ると、99%が98%だと誤差にしか見えないが、実は全然違うわけだ。

金属の属性でほんの少量の金属の付加がなぜ大きな違いを生む原因になるかは調べなかったけれど、人間の社会でもほんの少数の違いが社会の性質に大きな影響を及ぼすのと、同じ理由が働いているように見える。
後でより深く考察してみたい。
 
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指導者の恣意的な権力の行使について - 平和型国家論(その9)

2012.09.27 Thu

21:11:19

平和型国家論の構成をどうするか悩んでしまうのだが、今回は戦争時において指導者の権力の行使が恣意的なものになってしまうことを書く。

『悲劇の発動機「誉」』を読んで、一番印象に残ったのはエンジンの主任設計者が徴兵で引っ張られてしまうところだった。
「誉」は太平洋戦争後半の海軍の戦闘機のほとんどに搭載されるエンジンで、戦争の帰趨を決定すると言ってもいいエンジンだ。
その主任設計者をエンジンは一応完成したとはいえ、まだ不具合がたくさん残っている状況で徴兵してしまう。
誰が考えたって、徴兵するよりエンジンの開発を続けさせた方が日本の軍事力拡大のためにいいに決まっている。
他にも、工場の熟練工員を次々と徴兵してしまい、戦争のために必要な生産能力を致命的に損なってしまう。
軍需産業の熟練工員は兵卒として働かせるより、生産を続けさせた方がいいということがわからない。
この本を読んだとき、日本人の戦争に対する無能ぶりに絶望的になってしまった。

しかし、深く考えるとそれほど単純な話でないことがわかる。
無益な徴兵を防ぐためにはどうしたらいいのだろうか。
すぐ思いつくのは戦争遂行のために必要な部門に関しては、その部門に徴兵を拒否する権限を与えることだろう。
陸軍や海軍の徴兵を担当する部門から赤紙が来たら、その権限を使って拒否する返事を出すわけだ。
この場合何の制限もなく拒否できると、無制限に使用する危険性がある。
だから軍需産業などには、生産する兵器の重要性に比例して、ある程度の数の徴兵拒否の権限を与えるべきだろう。

さてここで問題になるのは、その徴兵拒否の権利を誰に使うかだ。
次期主力エンジンの主任設計者に権利を使うのは当然だろうけれど、ずっと下っ端の人間の場合にどう判断するかは難しい。
さらに工場の活動に極めて重大な影響を及ぼす人間に弟がいたとして、その弟も工場で働いていたとしよう。
弟の方は入ったばかりの素人同然で生産に関係がなく、普通だったら徴兵を拒否する権利は使わない。
けれども極めて重要な人物が、「弟が徴兵されたら自分は心配で能力が発揮できない」と言っても、そのまま徴兵させてもいいのだろうか。
答えは具体的な事例によって違うとしか、いいようがないだろう。
つまり、徴兵拒否の権利を割り振る力を与えられた人間が、生産能力最大になるには誰に使ったらいいかを考えて、決断するしかない。
問題なのは、その判断は恣意的にしかならないところだ。
当人がどんなに自分は公平に判断したと主張しても、選ばれなかった人間から見ればえこひいきで気に入った人間だけ選択したと映る。
その判断の適否を判定できるのは、直接の上司だけであり、目標の生産に対してどのような結果を出しているかで、支持するかしないかを決めるしかない。
あるいは部下を選ぶときに、それだけの能力を持った人間を見つけるわけだ。
この権限の連鎖は上へ上へとつながっていき、頂上には国家の指導者が存在することになる。

国家の指導者は戦争遂行のために強大な権限が与えられる。
今回の話の場合、徴兵するか否かであり戦争の状況によっては個人の生死を左右する権限となるだろう。
その権限は部下に与えられ、それと同時に目標の遂行に全力を尽くすことが要求される。
部下たちは国家のエリート、支配者階級だ。
最高指導者は能力を持つものを見つけ出して、階層を作り、戦争を遂行する。

日本が徴兵を拒否するかどうかの権限を軍需企業に割り振れなかったのは、兵役の義務を恣意的に割り振ることを拒否したからだ。
能力のレベルに応じて命の価値が違うことを拒否したからだ。
日本は平和が長く続いた国家であり、命の価値を戦争遂行能力の違いによって区別することを認めなかった。
基本的には全ての人間が平等なのだから、徴兵の義務も確率的に割り振られるべきだという概念が強烈過ぎた。
それを変更しようとするほどの権力の集中はついに達成できなかったといえる。
東条英機は政権方針に反対する記者に報復するために、その記者を徴兵してしまった。
さすがに一個人を指定しての徴兵はできなかったが、該当する年齢などの部分を一括して徴兵することにより目標を達成した。
このせいで東条英機の評判はずいぶん悪くなっている印象がある。
戦争指導者に権限が集中するということは、このような恣意的な徴兵も可能にすることだ。
戦争のためなら指導者のわがままも我慢しなくてはならない。
しかし、ついに日本人はそのような恣意性を認めることができなかった。
指導者には戦争能力よりも公明正大であることを求めたわけだ。

今回の話をまとめると、戦争型国家では戦争遂行のために指導者の恣意的な権力の行使を認めるが、平和型国家では恣意的な権力の行使を認めず、できるだけ公明正大に権力を使うことを要求するということだ。
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指導者の能力について - 平和型国家論(その8)

2012.09.25 Tue

21:26:42

指導者の能力とか特徴について書く。
安全保障の危機にある状況では、指導者に有能な人物が求められる。
指導者には戦争に勝てる能力が必要だからだ。
それに対して、安全保障において危機が迫っていない場合、指導者には能力よりも公正さが重要になる。

戦争というものは人間の全能力を活用して勝利を求めるべきゲームである。
そして個人の能力によって歴史が動く可能性が一番高くなる時だ。
ポエニ戦役においてはハンニバルとスキピオのザマの戦いの結果によって、戦争の勝敗が決まり、カルタゴという国の運命を決した。
もっともローマはこれまでハンニバルにずいぶん負けているので、この戦いで負けたからといって戦争に負けたかはわからない。
しかしザマの戦いでハンニバルが勝利していれば、その後の状況がずいぶん変わっていた可能性はあるように思われる。

つまり、一つの決戦によって戦争の勝敗が決まり、その決戦の勝敗が指揮官の能力で決まるならば、指揮官をどう選ぶかは国家の運命にとって決定的に重要な選択となる。
戦争型国家においては指導者の選択が最重要視されると言っていい。

指導者の能力は簡単には述べにくいけれども、基本的には頭の良さだ。
戦争というゲームはルールはないも同然だが、目標は大体はっきりしている。
だから戦争に勝てるかどうかという物差しで人間の価値を図ることができる。
具体的には頭脳の処理速度とか、入出力インターフェイスの機能だ。

歴史を見ると常勝将軍みたいな人間がいる。
ナポレオンのような人物だ。
彼らが戦争や戦闘に勝てたのは、偶然ではなくて、頭の良さによってベストの戦い方を見つけ出したからだ。
その能力というのは単純な筆記テストで判別できるようなものではないが、たぶん能力のある人には能力のある人がわかるのだろう。
能力のある人が能力のある人を選抜することによって、指導者の基礎能力を持つ人を見つけ出せる。
最終的な選択は民主主義国では選挙によるなど、また他の要素があるが、能力を持つ人を見つけ出そうというのは変わっていない。

それに対して平和型国家では違う。
下記は勝海舟の有名な挿話である。

引用開始

おれが始めてアメリカに行って帰朝した時に御老中から「そちは一種の眼光を具えた人物であるから、定めて異国へ渡りてから、何か目をつけたことがあろう。つまびらかに言上せよ」とのことであった。そこでおれは「人間のすることは、古今東西同じもので、アメリカとて別にかわったことはありません」と返答した。ところが「さようではあるまい。何かかわったことがあるだろう」といって再三再四問われるから、おれも「さよう、少し目につきましたのは、アメリカでは、政府でも民間でも、およそ人の上に立つものは、みなその地位相応に怜悧でございます。この点ばかりは全くわが国と反対のように思いまする」と言ったら、御老中が目を丸くして、「この無礼もの控えおろう」と叱りつけたっけ、ハハハハ
引用終了
「日本人とユダヤ人」山本七平著から「氷川清話」を引用している部分を引用。

平和型国家では頭の良さはそれほど重視されない。
戦争がなければ、頭の良さといった一つの物差しによって、人間の価値を図らないからだ。
むしろ公正さが求められるといっていい。

戦争の危険性がなくとも国家は共同体内の利害を調整する仕事がある。
利害を調整する場合まず必要なことはえこひいきせず、平等に共同体内の成員を扱うことだ。
どちらかの肩を持てば、不利な方は反発する。
平和型国家では権力が分散されているので、不利な方は協力しなくなってしまう。
そうすると対立がそのまま続き、どちらにとっても利益にならない。
必要なことは公正に双方にとって得になるように、裁定を下すことだといっていい。
落としどころはそんなに難しくはない。
双方の要求を足して二で割ったところにたいていはなる。

今回の話のまとめは、戦争型国家では指導者が有能であることを求められるが、平和型国家では指導者は有能でなくてもいいということだ。
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軍はなぜ暴走するのか? - 平和型国家論(その7)

2012.09.24 Mon

21:03:42

指導者の能力について書くつもりと前回述べたが、また変えてしまった。
戦争型国家では権力が集中することは述べたが、平和型国家ではなぜ権力が分散するかについてはあまり述べていなかった。
その部分について先に書いておく。

戦争型、平和型という区別より、まず戦争の危機が目前に迫り、自国の安全保障が危険にさらされれば、どうしても権力は1個人に集中し、国家は統一された活動を取ることを迫られる。
しかし、安全保障上の危険性が弱ければ、国家の各部分は各部分なりの利害を持ち、各部分勝手に行動していこうとする。
上からの都合で自分たちの利益が制約されることを嫌うわけだ。
前回述べた中国の意思決定システムの不統一は、そういう性質が多分に出ている。
この性質は大日本帝国の意思決定システムに似ている。

一番似ているのは、軍の暴走だ。
軍隊は戦争が仕事だ。
だから組織の維持拡大を最大の目的とするならば、戦争の危険性を訴え、そのために必要な軍事力の整備を強く要求する。
帝国海軍はアメリカとの戦いに備えてアメリカ海軍の7割の規模を持った艦船の建造を要求し、帝国陸軍はソ連との戦争に備え機甲部隊の整備や航空兵力を要求する。
現在の中国であるならば、中国人民解放軍は日本との戦争に備え尖閣諸島での戦闘で勝てるだけの艦隊の整備を要求するわけだ。

それらの要求を貫徹するためには、平和な状態があっては望ましくない。
仮想敵国との関係が悪く、一触即発な状況が生まれるように、外交関係での強硬姿勢を取るよう望む。
もちろん多くの場合戦争は、自国の国益にとって害が大きい。
だから、国家の指導部の意思が統一されているならば、少なくとも外交上は柔軟に行動しようとするのだが、権力が分散されていると強硬派と宥和派の対立が表面化してしまう。
戦前の日本では日中戦争の時、軍は戦線の拡大を望み、外務省は世界から孤立化することを恐れて戦争を止めたがった。
けれども実際に戦いが始まってしまうと、将兵の犠牲を減らすためと言えば国家はどうしても軍を支援しがちだ。
権力が分散し、戦時体制でない国家ほど好戦的になるという変な逆転状態が生まれる。

現在の中国でも、軍を中心とした勢力は尖閣諸島に対して強硬姿勢を取りたがっている。
日本に勝つための軍事力ということで予算が落ちるからだ。
日本の尖閣諸島国有化は石原都知事による購入を阻止するために仕方がないものだ。
阻止しなければ、都が購入して尖閣諸島に上陸し、なんらかの設備を作るだろうからだ。
それぐらいならば国が購入した方が、中国との紛争を回避できる。
都への売却を阻止するのは、私有財産の自由な売買が保証されている日本では非常に難しい。
この理屈は中国の外務省では理解できていると思う。
けれども、中国の軍部は理解できない。
いや理解しても、理解できないふりをして、強硬姿勢を取ったほうが自分たちの利益だと考えている。
だから、日本の総理大臣が国有化は日中和平のためだと主張をすれば、中国国民は理解してデモをやめるなどという考えは信じられない。
尖閣諸島の国有化をある意味を認めざるを得ないならば、デモを防ぐために政府は積極的に広報しただろう。
尖閣諸島の国有化を認めない勢力が指導部の中にいて、それが宥和派を押さえ込んでいるから、デモが起きるのだ。

そして、軍は要求した軍事力を整備すれば、それを国民に対して保証しなければならなくなる。
尖閣諸島を日本から守ることを理由として軍事力を整備したならば、日本が尖閣諸島で中国から勝手に行動すれば、中国軍は軍事力を用いてもそれを止めざるを得ない。
旧日本も海軍はアメリカに対抗するために艦隊を整備した。
アメリカが日本の拡大を阻止しようと、石油禁輸等で圧力をかけてきたとき、海軍はそれを阻止するために軍事力を整備してきたので反対が非常に困難になる。
結果太平洋戦争だ。

なんかどこの国でも、権力が分散されている主張になったかも知れないが、中国はもう戦争をずいぶんしていないことを考慮に入れるべきだ。
中国はたぶん米中国交正常化後は安全保障上の脅威がほとんどなくなった。
戦闘行動も1979年の中越戦争を最後にして行っていない。
それが権力の分散を促しているのだろう。
他の国の例としては、イスラエルも中東諸国との戦争が日常だった状態からすると、権力自体の分散は起こっていなくとも、国論は分裂気味になっている。

もっともこの理屈ならば、戦前の日本も満州事変以降はずっと戦争続きだったのだから、権力の集中が行われてもおかしくはなかった。
そうならなかったのは、日本が根本的に平和型国家であって権力の集中をとてつもなく嫌ったからだろう。
主張があいまいになってしまったが、私の言いたいことは安全保障上の危機が続いた国家ほど権力が集中され、安全保障上の危機が解除され平和な状態が続くほど権力が分散されがちになることだ。
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中国共産党の意思決定システム - 平和型国家論(その6)

2012.09.19 Wed

21:22:07

指導者の能力について書くつもりだったが、中国の政治システムについて一言述べたくなった。
中国の現在の政治システム、つまり中国共産党政治局常務委員9人の多数決による意思決定システムは戦時のシステムとしては向いていない。
現在の日中間の尖閣諸島紛争を見ていると、それがよくわかる。
いったい中国は何を目指して行動しているのか、日本政府にはたぶんわからない。
譲歩しようにも要求が出ていなければ、譲歩もできない。
菅内閣のときの尖閣諸島紛争では、少なくとも要求はわかった。
中国政府は逮捕した中国人漁民の早期釈放を求め、日本政府はそれをのんだ。
それに対して今回の中国政府のやり方では、何を求めているかがわからない。
その理由は中国の指導部内で意見が分かれていて、意思決定ができないからだ。

日本政府にいうことを聞かす一番いい方法は、在中日本人を無実の罪で逮捕して暗黙裡に要求を出すことだ。
ほとんどの場合日本政府はそれに抵抗できない。
今回だって要求が明確ならば、日本政府を屈服させることができただろう。
それができないのは、要求が明確でなく、決着点がわかっていないからだ。
結果、中国政府は駄々っ子みたいに暴れ、日系企業に不満をぶちまけている。

「【オピニオン】中国の反日デモ―7年前とは違う不安要因」では、日中間の紛争を分析しているが、問題点として次のようなことが述べられている。

引用開始

中国共産党は新世代への権力移譲の準備を進めているが、さまざまな派閥に分かれている党幹部はこう着状態に陥っており、いくつもの重要な問題、たとえば、失脚した薄煕来前重慶市党書記をどう扱うべきか、最高意思決定機関である中央政治局常務委員会の委員を誰にすべきか、などで合意形成ができていない。

 それぞれが一定の影響力を持つ中国の過去、現在、未来の指導者たちのあいだでまだ意見が一致していないため、党大会の日程すら発表されていない。
引用終了

9人という人間が意思決定を行うことは、政策だけ純粋に考えても難しい。
人事がからんでしまい、政策と派閥抗争が連動すると、もうにっちもさっちもいかなくなる。
この政策を支持する代わりに次期メンバーの選定では誰々を推して欲しいなどとなったら、政策の良し悪しなど考えることはできない。

このような状況に陥るのは、共産主義政権が一人の人間に全権を任すことができないからだ。
民主主義国では一人の人間に全権を任せても、大統領制のように期間を切るとか、議会制のように議員の支持を得られる状況のときとかのように、自然と制限がかかる。
平和裏に政権交代するシステムを法が保証している。
共産主義政権にはそれがない。
一人の人間に全権が集中してしまうと、途中で止めることができなくなる。
法よりも共産党が上の存在だからだ。

戦時だったら仕方がなく独裁を容認しただろう。
けれども平和な時代だったら、自分たちの命が簡単になくなるような状況は嫌になる。
だから上層部においては、寡頭制に変更するわけだ。
ソ連ではスターリンが死んだ後、中国ではトウ庄平が死んだ後、そのような体制に変化していった。

現在の中国共産党政権が戦時のシステムに向いていなくとも許されるのは、やはり安全保障上の脅威が減退しつつあるからだ。
外国からの侵略で国が滅びる脅威は中国はもうほとんど持っていないだろう。
中国共産党の存在意義が薄れつつあることになる。

なんか話がずれてしまったが、現在の国家が戦時から平時の体制に変わっていく一例と受け止めて欲しい。
次こそ指導者の能力について話をする。
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意思決定システムとしての独裁者 - 平和型国家論(その5)

2012.09.18 Tue

21:21:58

平和型国家論にまた戻りたい。
戦時において指導者に権限が集中し、極めて重要であることは前回に述べた。
同じことの繰り返しになってしまうが、指導者への権力集中が別の面からも必要であることを書く。

安全保障が国家にとって極めて重要ならば、その意思決定をどうすればいいのか。
意思決定にも大方針から些細な問題までレベルが分かれる。
まず、大本の仮想敵国を設定し、戦略を練らねばならない。
いや、そもそも仮想敵国の設定こそが重大事だ。
単純に二カ国が並立し仮想敵国が自動的に決まってくる状況でなければ、複数の国から対立し戦争を覚悟しなければならない国と友好関係を築き同盟を結びたい国とを分けなければ成らない。
その判別自体、自国の意思によって決まることも、全体的状況から勝手に決められてしまう場合もある。
国家はそれらの外交関係も含めて、自国の存亡のために最善の戦略を練って決定しなければならない。
外交関係の決定から始まる政略、仮想敵に対してどう戦うかの戦略、これらに国家の存亡と国民の生死がかかることになる。

この政略、戦略をどう決定するか。
民主主義国家なら国民全員が判断することでもあるが、そもそも人数が多ければ意思決定自体に時間がかかる。
GPS将棋は前回のコンピュータ将棋大会では797台というマシンをまとめて思考したのだけれど、それだけの台数があると意思決定にも時間がかかる。
もちろんコンピュータだから人間とは比べ物にならない速さで決定できるのだけれど、他のコンピュータに比べると遅い。
最低でも3秒かかって、あやうく時間切れ負けになりそうだった。
人間の場合でも同じだ。
多人数の意思決定には時間がかかる。
また、決定の方法も問題だ。
多数決が正しいとは限らない。
基本的には議論することにより、全員が最善の方法を理解して一致するのが理想だが、一致すること自体が確定的でないし、そもそもそれでは時間がかかりすぎる。
そうすると細かいことを一々全員で議論していてはならず、指導者に一任するという方式が生まれてくる。

また他国からの攻撃が不意をついて実行され、複数の人間が集まり意思統一を図る時間がない場合には、指導者は一人で全責任を持って行動しなければならない。

さらに戦争においては、混乱した複数の命令が同時に出されては最悪だ。
速やかに行動しなければならないのが、矛盾した命令が出されては実行が止まってしまう。
そうならないように、最高指揮官である指導者からは命令が一つのラインとして走り、末端まで届かなければならない。
つまり、国家は軍隊みたいにきちんと上下が定まり、直属の上司から命令を聞き、それを実行する形に作られる必要がある。

ローマ共和制では、平時執政官が二人いた。
戦争を前提にしているならば、おかしいかもしれない。
しかし、執政官が二人というのは、一人はローマに居残って統治を行い、一人は外征の指揮官をするというのが基本のスタイルと思われる。
当時の状況では二人いても、独立に行動するので、命令が別々に出される混乱は起こらない。
危機の場合、つまりローマという都市が外部からの攻撃によって包囲されるような場合は、二人が指揮官だと混乱してしまう。
そこで一人の人間が都市防衛の全責任を持つ。
それが独裁官というわけだ。

指導者はこのように戦時においては独裁者として行動する。
第二次世界大戦当時、日本を除いた各国は指導者に権力を集中して戦争を戦った。
ドイツのヒットラー、イタリアのムッソリーニ、ソ連のスターリン、イギリスのチャーチル、アメリカのルーズベルトと自国の全ての権限を掌握し、戦争体制がスムーズに動くようにした。
民主主義国でもチャーチルやルーズベルトは軍事面でも政略面でも独裁的な権限を手にしていた。
誰に説明することもなく、その権限を行使できたのだ。
日本は東条英機が首相兼陸相兼参謀総長と複数のポストを兼任することによって、システムを動かそうとした。
けれども海軍には手がつかなかったし、他の閣僚や、元老と呼ばれる人たちを制約することはできなかった。
結局、日本はついに完全に一体化して戦争を推進することができず、バラバラに戦い続けた。
戦時という危機感が足らず、些細なことであっても反論せずに従うことを徹底的に嫌がったわけだ。

戦時下ではこのように意思決定システムという点でも、指導者への権力集中が推進される。
次回は指導者の能力について述べたい。
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