異をとなえん |

なぜ狭軌は広軌よりコストが低いのか?

2011.10.11 Tue

22:16:17

昔の記事で、広軌より狭軌の方のコストが低い理由がわからないと述べた。
その理由がわかったと思うので、答えを書いておく。

まず前提として、日本では狭軌も標準軌(1435mmは世界では標準軌と呼ぶのが普通なので広軌の変わりに標準軌を使う)も、使っている台車の大きさや重さは同じである。
だから、狭軌でも標準軌でもトンネルの大きさは同じだし、線路にかかる重量も同じだから地盤の改良工事なども同じ費用がかかる。
それだったら、なぜ狭軌の方がコストが低いということで選択したのかという理由がわからないのが、疑問だった。
答えは狭軌の方の曲がるときの半径が短かいからである。
狭軌の場合の方が外を回る線路の長さが短かくなるので、曲線半径をより小さくできる。
下のリンク先によると、「標準軌のカーブの半径は300メートル。狭軌のそれは100メートルで可能」と書いてある。

なぜJRの線路は幅が狭いのか - 鉄道・路線 - 教えて!goo

引用開始

関川夏央著『汽車旅放浪記』(新潮社刊)によれば、標準軌のカーブの半径は300メートル。狭軌のそれは100メートルで可能という点が一番の要因のようですね。
黎明期(明治時代)ではトンネルを技術はまだ稚拙だったため山や谷を縫うようにしてレールを通さねばならなかったので(小さなカーブ)、そういう選択となったようです。
世界的にも同じような条件の国(ニュージーランドや南アフリカ)では狭軌が採用されてるケースが多いそうです。
引用終了

回答の中では標準軌も半径30mで曲がることが可能とあるが、たぶん速度を遅くしているのだろう。
速度を遅くすれば半径を小さくすることは可能でも、標準軌にするのは速度を早くして輸送力を拡大するのが目的なのだから本末転倒だ。
もちろん条件の組み合わせによって最適な方法はかなり変わってくる。
しかし狭軌でも速度を遅くすれば標準軌より小さい半径で曲がれるだろうから、とにかく敷設最優先で考えれば狭軌が有利だったことは間違いない。
結局、日本の山がちな国土では、できるだけ小回りがきく方がコストが低くなる理由だったわけだ。
最初に作られた山手線、品川赤羽間も武蔵野台地を通って線を引くのにさんざん苦労しているはずだ。
トンネルも高架の線を引くのも大変な時代だったのだから当然だろう。

後、最初の疑問では狭軌も標準軌も同じ台車だったらと考えたが、これは現在の日本が狭軌で輸送力を上げるために台車を大きくしたからで、最初に作ったころは狭軌の台車は小さく、当然費用も安かっただろう。

狭軌について

引用開始

強度狭軌とは本来は1067mm軌間でありながら20tという広軌並みの軸重を支えるものとして改軌論のなかで登場します。 現実にはその当時は改軌も、画期的な軌道強化も主として予算不足から実現しませんでした。 日本の国鉄の車両限界の拡大や許容軸重の増大はその後の100年を掛けてゆっくりゆっくり実現していったものです。

 しかし、同じサブロクの南アフリカ共和国は正真正銘の強度狭軌です。 本来広大で資源が豊富な南アフリカは標準軌で鉄道が敷設され、それを曲線通過に有利なサブロクに改軌したという経歴を持っています。
引用終了

南アフリカがわざわざ標準軌から狭軌に変更したのも、山がちな国土なので曲線通過に有利なためだということがわかる。

結果論ではあるが、通勤には狭軌で、都市間移動には標準軌の新幹線で対応している現状の日本は、成功している。
だとしたら、最初の狭軌の決定は正しかったのだと思う。
このエントリーをはてなブックマークに追加
LINEで送る

「江戸のダイナミズム」感想

2010.03.11 Thu

03:56:43

「江戸のダイナミズム 古代と近代の架け橋」を読む。


西尾氏の江戸時代の思想史に関する本なのだけど、わかりづらい。
ヨーロッパ、清、日本の文献学を通して、日本の近世の思想史を書こうとしているのだが、何を主張したいのだかよく読み取れない。
はっきり言って失敗作。
一応、主題は最初に掲げているのだが、それを何回も記述せざるを得なくなるほど、最初は乗れていない。
たぶん、西尾氏も書きづらくて、何度も原点に立ち返って、原稿用紙の升目を埋めざるを得なかったのだ。
後半になってかなり乗れてくるのだが、やはりピントが合っていない。
あまりにも、主題が大きすぎて散慢になっている。

ただ、少しおもしろい部分もあった。
後半に入って本居宣長についての言及があるのだが、これが悪くない。
中国という先進国に対して、日本がどう対抗していくかという思想の実験になっている。
普遍性を拒否し、日本という特殊に拘泥する理論は私の興味ある所なので、参考になった。
日本には思想家はいないというのが私の考えだったのだが、本居宣長は違うのではないか。
なんか少し本居宣長について勉強したくなった。
このエントリーをはてなブックマークに追加
LINEで送る

「黒船前夜」の発売決まる

2010.01.23 Sat

20:57:00

「日本近世の起源」感想という記事で触れていた、渡辺京二氏の「黒船前夜」の発売日が決まっていた。
2010/02/02だ。
価格は3045円で私には高い。
でも、この人の本は立読みだとしんどいので、買ってしまいそうだ。


アマゾンの内容紹介は次のようになっている。

引用開始

名著『逝きし世の面影』から十余年……。
いま漸く、その続編が書き継がれた!
ロシア・日本・アイヌの三者の関係をとおして、北方におけるセカンド・コンタクトの開始を世界史的視点で捉える。
異文化との接触で生じる食い違いなどエピソードに満ちたこれこそ人間の歴史! 渡辺史学の達成点を示す待望の書、遂に刊行!
引用終了

グーグルで検索して見ると次の二つが記事の内容に関係している。

渡辺京二さん「黒船前夜」 毎週木曜に連載

渡辺京二・『黒船前夜』…シベリアの連水陸路とは

ロシア・日本・アイヌの交渉史の基本的な所から説明する本になりそうだ。
アイヌの歴史はよく知らないから、その確認だけでも意味はありそうな気もする。
よく考えてみると、ロシアのシベリア開発史もよく知らないな。
よく考えずとも知らんか。

基礎的知識だけでは面白くないから、どういう新視点があるのか。
どう料理してくるのか、ちょっと楽しみになってきた。
しかし、新聞連載なのに真っ当な感想が一つしか上がっていないのはどうしたことか。
熊本日日新聞を読んでいるブロガーなんて、ほとんどいないんだな。
このエントリーをはてなブックマークに追加
LINEで送る

武士の窮乏化とグローバリゼーション

2010.01.15 Fri

17:08:56

歴史の教科書の江戸時代の部分を読むと、「貨幣経済の普及につれて、武士の窮乏化が進んだ。」なんて記述が見られる。
私は高校生の頃、あまり納得できなかった。
貨幣経済の普及というのは、いろいろな贅沢品を貨幣で買うことができるようになったと理解していたと思うが、自分の収入に見合わない商品を買って貧乏になるというのは自業自得だと考えていたものだ。
商人たちが贅沢な暮しをしていたって、それは自分たちの生活とは直接関係がない。
見栄を張って身分不相応な暮らしをしたら、破滅するのは当然だ。
だから、幕府が贅沢禁止令を出すのは、武士が商人たちに見栄を張ろうとするのを止めるためだと考えていた。
せせこましい政策に見える。
けれども、経済学的に考えると、「貨幣経済の普及につれて、武士の窮乏化が進んだ。」という表現の意味がわかるようになった。
あるいは、もっとわかりやすく説明できようになった。
その話をしてみたい。

江戸時代、「日本文化の原型」の紹介でも述べていたように、生産性が大幅に改善されて人々は豊かになっていった。
それなのに、武士は貧しくなっていったし、東北では大飢饉も起こっている。
それはなぜなのだろうか。

武士が貧しくなっていったのは、収入が増えなかったからだ。
武士の収入は年貢だが、江戸時代の最初の頃は米の半分を徴収するのが普通だったらしい。
「五公五民」と呼ばれるものだ。
しかし、それでは豊作不作によって収入が上下することになる。
それは不便だし、何よりも米の生産量の調査の手間が大きい。
年ごとに一定の量の米を収める方法に変えれば、量が一定になって処理しやすくなる。
取り分もその時点で六四とかならば、武士にとっては得だ。
農民も生産量が前と変わらなければ、不利なだけだが生産量が増えれば有利になる。
年貢の量が一定ならば、それ以上に取れた分については全部自分の収入になるからだ。
だから、その方がシステムとしては、うまく出来ていて、次第に年貢を収める方法はそちらに移行していった。

生産量が増えれば増えるほど、農民の生活は豊かになるので、いろいろと工夫して米の生産量はどんどん増えていく。
国民全体が消費できる量を越えるほどまでに増えていったのだ。
問題なのは、米価が下がってきたことだった。
社会全体としては、生産量が増えること自体はいいことだ。
価格が下がれば、その分消費量は増えていく。
たとえば米の場合だったら価格が安くなることで、米が食べられる人は増えただろうし、米を原料とする清酒の生産量も増えていった。
それでも消費できないならば、生産量を一定に抑える力が働き、労働力が別の分野に向かうことになる。
江戸時代だと、そのような労働者は江戸や大阪に働きに行くようになり、新しい需要を生産する方面に向かうことになった。
農家の次男や三男が江戸に丁稚奉公に行って働くという話だ。
経済が成長すれば、余剰労働力は別の生産を始めるので、段々と生活は良くなっていく。
農民、職人、商人の生活は良くなっていったわけだ。

しかし、そうならない人たちもいる。
武士がその筆頭となる。
武士はその収入を米に換算される年貢として受け取っている。
昔は米だけでなく、他の農作物や労働力自体も提供され、それだけで生活を賄っていった。
豊かになるにつれて、支配している農村だけでは必要となる商品が足りないので、他の地域と商品を交換することによって、生活するようになる。
他の地域と商品を交換するには、共通の通貨があった方がいい。
その結果、年貢の徴収を米だけに絞り、その米を売却して、他の必要となる商品を手に入れる方が合理的となった。
つまり、貨幣経済の普及というわけだ。

この状況で米価が下がれば武士の総体としての収入は減ってしまう。
上に述べたように、受け取る米の量は一定になっているのだから、これ自体で生活が苦しくなる。
もう一つの問題は、米価が下がると同時に、他の価格が上がることだ。
米価が下がっているのは米の収穫量が増えていることだから、一人当りで見ると米生産は増加しているわけだ。
この時代は米自体が通貨みたいなものだから、現代で言う一人当り国民総生産が増えているのと同じことになる。
そして、一人当り国民総生産が増えているということは、個人の給料が増えていることであり、そのため他の商品の価格は上がっていく。
この場合、他の商品というのは生産性の上昇がないにも関わらず、需要が変わらない商品ということだ。
具体的に言うとサービス業である。
農業工業の生産物が大量生産によって、大幅に価格が下落するのに比べると、サービス業は生産性がなかなか上がらない。
そして、需要も大きくは変わりにくい。
もちろん、生産性も需要も変わりにくいだけで、長期間だと変動するのだが、ここでは固定として考えておく。
そうすると、労働者の賃金が上昇すると、それに連れてサービス業の価格も上昇することになる。
サービス業は卸売小売業を含んでいるのだから、つまり全ての商品の価格が上がるということだ。
日本の高度成長時代に賃金が急上昇しているから、諸物価が急騰していたようにだ。

ここで江戸時代の武士の話に戻る。
今言ったように、江戸時代は生産性の上昇によって、賃金は上昇していたと思われる。
そうすると、武士の収入は米価の下落によって減少し、支出は賃金の上昇による諸物価の高騰によって上昇していくことになる。
窮乏化するのは当然だろう。
もちろん、武士が収入源たる米だけで暮すならば、支出は増えないが実際には米だけで暮すわけにはいかない。
衣食住の衣と住は金を払っていくしかない。
食だって米だけで暮せる人はいない。
おかずだって必要だ。
そんな訳で武士たちは貧しくなっていった。
ここで重要なのは、武士の生活が相対的に窮乏するのではなく、絶対的に窮乏することだ。

それでは、これを改善するにはどうしたらいいのだろうか。
一番に思いつくのは、収入を増やすことだ。
けれども、これは簡単には行かない。
収入を増やすのは年貢を増やすことだけれど、当たり前だが農民は反対する。
何らかの得がなければ、はいそうですかと納得するわけがない。
実際、徳川吉宗は年貢を増やそうと税率を上げたために、膨大な一揆を招いた。
当たり前だが、武士が年貢を徴収する最大の理由は、国の安全を保障してきたことだ。
戦国時代、日本中が乱れた当時は、武士たちが必要であり、農民たちもそれを究極には納得してきた。
だから、年貢を取られても我慢したのだ。
しかし、江戸時代は日本にずっと平和が続いた時代だ。
誰からも攻められる危険性が身近にないのに、安全保障の費用を上げようとしても納得してくれるわけがないのだ。
そのため、年貢を増やすという方法はうまくいかない。

そうすると、武士の窮乏化を解消するには、米価の維持を図るとか、米以外の商品の値上がりを抑えるとかいう方向になる。
しかし、米価の維持は難しい。
吉宗は米将軍と言われるようにいろいろと対策をほどこしたみたいだが、市場で取引されるものは生産量が増えれが価格は下落するに決まっている。
それでも価格を止めようとするには、農民に作らないようにさせるしかないが、そんなものを聞くわけがない。
市場においては、価格が商品の生産費用を上回っているならば、その農民たちは作り続けるに決まっている。
生産を止めるには強制するしかないが、それは収入を減らすのだから、結局は一揆の道だ。
現代日本みたいに減反する人には補助金を出すなどと言うのは、そもそも政府の収入が農村からの収穫に頼っていないから可能なのであって、農村からの収入に頼っている幕府にそんなことができるわけがない。
よって、米価は下がり、武士の収入は下がったままである。
しかし、理屈から言って、あまりにも米の値段が下がれば、作っている農民にとっても得はなくなる。
消費できる以上に作っても仕方がない。
そこで、生産費用が米の価格を上回る農民は生産を減らし、米価はある程度で落着くことになる。
豊作不作による変動はあるけれど、無視できる程度だ。
東北の飢饉とかいう話もあるけれど、これは別の話なので後で説明する。

武士は年貢による収入が大幅に低下するが、ある程度の所で落ち着いた。
このままなら、なんとかなるかも知れないが、そうはうまくいかない。
米以外の商品の価格は上昇するからだ。
正確には労働の賃金の上昇をそのまま反映するしかない商品だ。
普通の労働者の場合は経済が成長することによって、賃金が上昇するから物価が上昇しても困らない。
けれども、武士は収入が増えようがない職業なのだ。
困窮するのも当然ということになる。
仕方がないので、ドラマに出てくるのような傘張りのような内職をして、なんとか暮していくしかなくなる。

そうすると、武士の窮乏化は当然だが、彼らは社会の上層階級であり、他の方策を探すことになる。
その一つが贅沢禁止令だ。
今言ったように、物価が上昇する原因は賃金の上昇であり、賃金が上昇するのは生産性が上昇しているからだ。
だったら、物価の上昇を止めるには生産性の上昇を止める、つまり生産量を増やさないようにすることだ。
つまり贅沢を止めることだ。
贅沢禁止令は儒教から出てくる政策で、単なるねたみだと思っていた。
けれども理屈はあるわけだ。
贅沢禁止令によって需要が増えなければ、生産が増えない。
農村から出たきた人たちも、仕事がなければ失業状態で賃金は上がらない。
物価も上がらないことになる。

しかし、誰が考えてもこれは無理な政策だ。
より良い生活を求める人々の欲求を止めることはできないし、そもそも贅沢品を作っていて失業した人たちの暮らしはどうするかという話もある。
贅沢禁止令をかいくぐる方法は、いろいろあるし、第一武士自体だって贅沢はしたいのだ。
そういうわけで、結局なし崩しになって、武士の窮乏化は続くことになる。

これをどう改善するかは明白で、武士の仕事が治安保障で、実際治安に問題がないならば、武士という数を減らすのが一番になる。
でも階級として武士から落ちるのは難しい。
困ったなという所で、明治維新を迎えるわけだ。

武士の窮乏化自体はある意味自業自得なのだが、悲惨な所もある。
東北の大飢饉はその表れだった。

** 東北の大飢饉

天明の大飢饉は田沼時代に起こった飢饉だが、東北を中心に多数の餓死者が出たと伝えられている。
江戸時代、生産性が上昇していたならば、なぜこのような飢饉が起こったのだろうか。
もちろん、天候自体の問題はある。
江戸時代は寒くなっていったと言われるから、米の不作も止むを得ないかもしれない。
けれども、日本全体として長期に見れば生産量は増加していたと思うので、それは本質的な理由にはならない。

本質的な理由は成長そのものにある。
私は米の生産量が江戸時代飛躍的に伸びたと考えている。
大量の米が大阪で売られ、それが江戸に出荷されていた。
米相場が成立し、米価に一喜一憂する人々も多くなった。
米の大量生産で米価が下がれば、農民の収入は減る。
量をより多く作ることで、米価の下落による収入の低下を防げるところはいい。
そうでない所、生産性があまり上がらないので量自体は同じくらいしか作れない所は、米価の下落の影響をもろに受ける。
たぶん、東北の農村がそれにあてはまったのだ。
本来というか、普通に考えれば、別の仕事を探すのが一番いい解決方法だ。
けれども、東北の農家はそう簡単にはいかない。
まず、年貢は米で収める必要がある。
武士は米で収入を確保している以上、農民に米作りを放棄されたら、即困ってしまう。
だから、何がなんでも農民を土地に縛りつけて、稲作をさせる必要がある。
けれども、農民はそれでは収入が減っていくので、段々と貧しくなってしまう。
貯蓄も段々と減っていくだろう。
その状況で不作が起これば、他の所から米を買うこともできない。
飢饉が発生することになる。

その地に留まって、米以外の農作物を作るとか、特産品を作るとかするのはどうだろうか。
これは、東北の藩の藩政改革で実行したことでもある。
でも、稲作自体で労働時間を多く取られていたら、転換も難しい。
他の農作物も寒冷化が進むような状況では難しいし、手工業のような事も生産地や消費地からは遠く離れている。
その時代の生産地は京都や大阪を中心とした近畿だろうし、消費地では江戸だろう。
技術を習得したいといっても、この時代の遠距離はそれ自体伝播が困難な話になる。
結局、人が移動していくのが一番いいのだが、武士が許さない。
その結果、飢饉による強制的な人口減少による解決が実行される。
成長による格差の発生の悲劇だ。

** 成長のメカニズム

経済が成長するというのは、次の二つの仕組みが動いていることだ。
一つは、生産性を向上させた部門の人々の収入が増えるので新しい需要を生み出すこと。
もう一つは、生産性を向上させた部門で余った人々が、新需要のための労働者に配置変換されること。
これ自体が格差だといっていい。
生産性が向上している部門から追い出される人々は、今までの技能がふいになるのだから、簡単には承知しない。
ギリギリまでがんばる可能性が強い。
それはどんどんと貧乏になっていく過程だ。
どん底まで落ちると仕方がなく、新しい世界を求めていく。
新需要を作り出している部門は、新たな希少価値を生み出している部門なのだから、一番儲かる所だ。
そこへ転職しようとするのだから、格差は際立つことになる。

そして、そもそも転職できるかどうかわからない。
新しい需要は新しい技能を求める。
マッチングすることもあるし、マッチングしないこともある。
そうすると、マッチングしない人は今までの職業の中で下層の仕事に転ずるしかない。
それは辛い話だ。
格差社会という話になる。

成長のメカニズムは現在にも働いているし、その中で人々は生きている。
グローバリゼーションと呼ばれる現象もその一部だ。
武士の窮乏化とグローバリゼーションによる格差の問題とが、本質的に同じ話だということを書こうとしたのだが、そこまでたどりつかなかった。
その説明をこの次にしたい。
このエントリーをはてなブックマークに追加
LINEで送る

「日本文化の原型」感想

2009.12.26 Sat

19:46:44

「日本文化の原型」を読む。

前にざっと立読みしていたのだが、図書館にあったので借りてきた。

基本的に最近主流になったと見られる「江戸時代は暗黒時代じゃなかった」論の本である。
私はその論を支持しているから、ちらっと読んだ時はあまり目新しさを感じなかったが、全体をきちっと読んで少し意見が変わった。
本の中では、衣食住に始まって、出版、文房具、教育、絵画、芝居、観光旅行など、生活の全てを網羅して書いている。
その結果、江戸時代の前と後では生活が根本的に変わったと確信できた。
江戸時代の前ではそもそも抑圧できるような生活がない。
酒がない。
醤油がない。
歌舞伎がない。
本がなくて、旅行がなくて、浮世絵がない。
暗黒時代論の前提である、抑圧するためのゆとり自体が江戸時代の前には全然ないのだ。
江戸時代には、歌舞伎や本の禁止といろいろ弾圧も時々あったろうが、そもそもそれらを生み出したのが江戸時代だった。

日本が江戸時代停滞していたという批判も、全くあてはまらない。
この本の副題は「近世庶民文化史」だが、経済学的な目でとらえれば、膨大な新産業の勃興史である。
生活のありとあらゆる面で、新しい産業が生まれ生活を豊かにしていった。
その歴史である。
数値的な資料がないから国民総生産とか成長率とかは算定できない。
けれども、国民総生産が江戸時代の最初と後では全然違うだろうことは、本を読めば容易に推定できる。
人口が江戸時代初期に急激に増えた後停滞したとしても、一人当り総生産は順調に増えていたはずだ。
一人当り総生産が増えている社会が停滞していたはずがない。

もっとも、この理解は少しおかしい。
生活が豊かになることが人々の目標で、国民総生産が増えたかどうかとか、成長したかどうかは、結果としての話である。
だから、生活が豊かになったことがわかれば、国民総生産なんかはどうでもいい。
けれども、一人当り国民総生産が二倍になれば、生活が二倍豊かになったと大体推定できる。
数値だけで簡単にわかるという点で便利だという話だ。

本の中では新産業を生み出した余剰の話は、ほとんど出てこない。
けれども、これだけ新産業が生まれたということは、農業の生産性が改善して、他の産業に従事できる余剰を生み出したことは容易に想像できる。
そして、生産性の改善ということで言及されているのは、木綿の普及だ。
麻の衣服が木綿の衣服に変わったことで、女性たちの織る作業時間が大幅に短縮しただろうと書いてある。
生産性の改善が新産業への労働の供給となり、新しい商品を享受するためのゆとりとなる。

江戸時代を理解する本としては、他に「逝きし世の面影」が上がる。

「逝きし世の面影」は外国人の目で江戸時代をとらえることによって、今の日本人の共感する力を呼びさました。
この本は、史実を丹念にたどることによって、具体的な生活を把握させた。
江戸時代を全体的に把握できる好著だと思う。
このエントリーをはてなブックマークに追加
LINEで送る

「坂本竜馬と明治維新」感想

2009.03.13 Fri

21:49:48

マリアス・ジャンセン著「坂本竜馬と明治維新」を読む。
現代は「SAKAMOTO RYOMA AND THE MEIJI RESTORATION」。
前に誉められていた文章を見たので、それに影響されて読んでみた。
一読した限りでは、普通のことが書いてある。
「竜馬がゆく」とは違うとあったと思うのだが、たいして変わらない気がする。
もっとも、「竜馬がゆく」を読んだのは、もう30年近く前だから、
記憶が薄れているのかもしれない。
原著は1961年出版だから、50年近く前の本だ。
その時は新鮮だったのかも知れないが、その後広く行き渡って、
今は当然と受けとめている気もする。

階級的利害という言葉が出てきて、この頃の歴史学が、あるいは今も、
マルクス主義的な構造に支配されていることを示している。
階級というのが、ある意味歴史を動かす大きな力だということは、
私も否定しないが、もう一つの大きな力というより、
私には決定的に重要と思える力は、外敵との戦いだ。
明治維新を動かす力を、階級やらなんやらに求めるよりも、
日本という国を守るためにどうすればいいかと、
みんなが考えた結果だと思う方がずっとわかりやすい。

この本は坂本竜馬をモデルにして、その時代の揺れ動いた人間を描いている。
坂本竜馬はペリーの黒船に衝撃を受けて、とにかく国を守るために動いた。
幕府は開国に動いたけれど、それは欧米の力に流されただけで、
展望があってしたわけではない。
それが、国民の恐怖心を煽り、開国したことでの景気の悪化や、伝染病の渡来が、
武士の多くを攘夷を導いていった。
やってみなければわからないことは、この世にたくさんある。
実際に欧米と戦ってみなければ、攘夷は達成できないことがわからなかった。
どうやれば、攘夷を達成できるかを考えた時、国を富まし、
軍備を整えるしかないという結論に達っした。
富国強兵をどう達成できるかを考えたとき、幕府はそれに対応できなくなっていた。
古いシステムが要望を反映できないのだ。
坂本竜馬は、攘夷、開国、富国強兵、倒幕の変化の典型だった。

この本では、明治新政府あるいは薩長藩閥政府が自由民権運動を弾圧したという、
歴史観を受け継いでいる。
けれども、それは本当だろうか。
明治新政府は、それほどはっきりした権力構造を持っていただろうか。
そもそも、明治新政府は薩摩藩と長州藩によって作られた。
だが、新政府は混乱の中、改革を実行していくためには、
藩という存在が邪魔だと思いはじめる。
その結果、版籍奉還、廃藩置県と実行されるわけだが、重要なのは、
その時点で新政府の薩長出身者は後ろ盾を失うことになる。
彼らの権威は幼年の天皇によっているが、ほぼ全てを改革していく結果、
伝統としての力を失っていく。
天皇は幼年で意思決定はままならない。
では、どうやって国の意思決定ができるのか。
それは、ある意味日本らしく空気だろう。
民主的な多数決に近い。
もちろん、政府上層部だけの話だ。
その中で、とにかく問題を解決できるかどうかで、力を振るえるかどうか決まってくる。
そんな風に考えてくると、明治新政府というのは、権力というより、
外国の事情を知っている人間たちによる問題解決の組織だった。

幕末維新の時代は人がやたら死んだ。
死んだ後、その意志を継ぐ人がいなければ、世の中は変わる。
井伊直弼が死んだ後、その意志を継ぐ人はいなかった。
後継者は命をかけて、その路線を守ろうとしなかった。
世の中が変わる時はそんなだと思う。
逆に言えば、その意志を継ぐ人がいれば、人が一人二人死んだからといって、
世の中は変わらない。

こんなことを本を読みながら考えた。
このエントリーをはてなブックマークに追加
LINEで送る

「日本近世の起源」感想

2009.01.17 Sat

19:15:21

渡辺京二著「日本近世の起源 戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ」を読む。
「逝きし世の面影」で俗にいうネット右翼の間で名高い作者の本だ。
洋泉社MC新書として、復刊された本を読んでいる。
「逝きし世の面影」の直接の続編として、平和な江戸時代がなぜ成立したかを、
中世の時代がどんなものであったかを描くことで、教えてくれる。

ぱらぱらっとめくっただけでは、引用の多い散慢な本かとも思えるが、
最初からきちんと読んでいくと、
明確な意思に基づいた、はっきりとした主張のある著作ということがわかる。

まず、読んで衝撃を受ける。
戦国時代はNHKの大河ドラマが牧歌的に描いているような世界ではない。
血腥い凄惨な世界だ。
大量の死にあふれ、戦争に負けた側の民が外国に奴隷として売られる、
貧困がそこらじゅうで目につく、
そういう悲惨な社会の様相を説得力を持って描いていく。

そして、なぜ、そのような社会が生まれたかを明らかにする。
自由がないのではなく、自由がとてつもなく溢れた社会としての中世だ。
ありとあらゆることが、当事者の責任に委ねられていく。
鎌倉時代の裁判が現代のアメリカの裁判に似た、当事者主義に立ち、
判決は真実を明らかにすることではなく、
当事者の間の法廷での戦いの勝敗を判断するものに過ぎない。
しかし、鎌倉時代の裁判はアメリカの裁判とは違う。
刑の執行すら当事者たちに委ねられている。
双方で土地を争った場合、ある方に土地の正統な権利があると認められたからといって、
裁判所がそれを守ってくれるわけではない。
その土地を守るのも、取り返すのも、当事者自身で行なわなくてはならないのだ。
ここまで、行ってしまうと裁判の意味がない。
当初意味を持っていたと思われるのは、
判決の正当性によって当事者が従っていたからだろう。
時代が下るにつれ、簡単にいうことを聞かなくなってくる。
争いが増加していく。
鎌倉幕府は私戦を何度か禁止するが、止めることができない。
裁判の判決を保障しないのだから、当然ともいえる。

室町時代に突入して、
この正義を自分たちで実現する、あるいは実現するしかない社会は極まっていく。
正義の執行者は、とめどもなく解体されていき、村のレベルに落ちていく。
村々は自分たちの山や川を守るために武力に訴えざるをえない。
妥協や取引をすることができない。
どのような契約も、それを保障するものがなく、結局は実力行使に走ることになる。

そのような、権力の解体が行き詰まった地点として戦国時代がある。
しかし、それは同時に新しい世界の発端ともなる。
その当時の人々は、悲惨な生活の中で、平和を心の底から求めていった。
そして、領主にそのことを要求していく。
結果として、領主は領域の平和を守れるからこそ、領主であり、
そうでなければ替えられるべきだという思想が生まれる。
その思想は領主にも農民にも浸透し、徳川の平和として結実する。

以上が私の読みとった本書のメインテーマであり、
私は心から納得してしまった。
本書の最後の方、九章の結びの言葉は感動的である。


領主は領国のうちに平和を実現すべき責任があるという、一五世紀に生まれた政治思想が、一六世紀にはひろく地下衆に浸透し、戦国大名の国家理念となって、ついに秀吉の統一国家を実現し、徳川の平和として現実に実を結んだのは、村々や町々に築きあげられた共同という社会的基礎があってこそだった。徳川の平和とは村々や町々に充ち溢れた豊かな生命の光であり、そのことは徳川の世が深まるにつれて明らかとなったのである。
(P303)


このメインテーマを中心として、作者の思想的な部分もところどころある。
たぶんに江戸時代の平和を愛する作者は、
それを貶めようとする今までの日本の歴史学に対して非常に不満を持っていて、
その批判が本書のところかしこに出てくる。
「逝きし世の面影」にはあまりそういう部分を感じなかったので面白い。

また、一向一揆の実相を描いている分では、
親鸞が取りあげられていれ、その思想解釈の部分は興味深い。
本編と直接関係ないながらも、作者の思想の一端が出ている感じで、
本書の解説にも取りあげられているほど印象的だ。

図書館で借りてきた本だが、
常時参照できるように購入したいと考えるほど魅力的な本だった。
後、ブログを書く際に書評等を検索したのだが、
下記によると熊本日々新聞夕刊で連載をしているらしい。

渡辺京二「黒船前夜」連載開始!

「黒船前夜」というこのシリーズの続編に当たる。
本として発行されれば読むのが楽しみである。

最後に目次を挙げておく。

序章 日本のアーリイ・モダン
第一章 乱世とは何か
第二章 乱妨狼藉の実相
第三章 武装し自立する惣村
第四章 山論・水論の界域
第五章 自力救済の世界
第六章 中世の自由とは何か
第七章 侍に成り上がる百姓
第八章 一向一揆の虚実
第九章 領民が領主を選ぶ
終章 日本近世は何を護ったか
このエントリーをはてなブックマークに追加
LINEで送る