異をとなえん |

「国民国家」は終焉を迎えているのか?

2013.06.22 Sat

20:10:24

境界がゆらぎ崩れていくなかで葛藤が起こっている時代という記事を読んだ。
「国民国家」は終焉を迎えるという主張に疑問を持ったので、反論してみる。

記事の直接の内容は、佐々木俊尚氏の「レイヤー化する世界」の書評だ。
その中で佐々木氏の主張でもある、「国民国家」が終焉を迎えつつあるという主張に同調する形で意見が述べられている。
「レイヤー化する世界」はぱらぱらとめくってみたのだが、どうも意見がピンぼけしているようで、私には具体的に何を主張したいのか焦点が見えなかった。
この書評では「国民国家」が終焉を迎えることに主張がしぼってあるので、反論してみる。

「国民国家」が終焉する理屈は、世界が「場」によって変化し個人が国民国家の境界を越えて動くようになるので、国民国家の重要性が薄れるというものだ。
「場」とかの意味はわかりにくいのだが、下記に引用している部分を読むとなんとなくわかる。

引用開始

佐々木俊尚さんがおっしゃる「場」とは、たとえばサッカーならサッカーが「場」になってきます。そこにいくつものレイヤー(層)が重なっています。J1やJ2といったレイヤー(層)があったり、海外リーグのレイヤー(層)があって、選手たちは異なるレイヤーの間を行き来しています。

(中略)

選手たちはサッカーという「場」で、あるときはヨーロッパリーグというレイヤー(層)、あるときはジャパン代表という「レイヤー(層)」、あるときはJリーグというレイヤー(層)を行き来しているのです。こういったあり方は、ウチとソトが分かれた「国民国家」が主役の時代ではあまり一般的ではなかったことです。
引用終了

要するに、人がいろいろな多面性を持って活動している、それだけの話に見える。
昔は国をまたいだ多面性は珍しかったが、現在ではそれがありふれているということだ。
ただ、多面性を持って活動しているといっても、それは経済的な活動に限定されているのではないだろうか。

「国民国家」の本質は安全保障だと考えている。
外敵から防衛や社会保障だ。
外敵からの防衛は中世だと封建領主によって守られていたこともあるが、歴史を通してほとんどの場合国だった。
社会保障は昔は国の担当範囲ではなくて、家族や宗教団体が担っていたこともあるけれど、近年では国が主体となっている。
これらの安全保障の特徴は、交換によって双方が利益を得ることができる経済関係ではなく、ともすれば贈与によって一方だけが得をする関係ということだ。
防衛活動は健康な男子が主としてたずさわり、共同体が生きのびるならば彼らがほとんどの損を引き受ける。
社会保障も金持ちが貧乏人に対して援助する側面が大きい。
つまり、安全保障は経済活動のような対等な関係から生まれるものではなくて、家族や社会共同体といった連帯感を持った関係でしか成立できないということだ。
現在では「国民国家」がその連帯感を持つ関係に適しているので、世界に広がっている。

「場」という概念は理解した限り、経済関係でしかない。
サッカー選手が急に失業した場合には、サッカー業界が保険みたいなものは提供できるかもしれない。
けれども業界自体が不況によって崩壊すればダメになることもありうる。
誰であろうとも急に困った場合に助けてくれる組織が必要だというのが、普遍的な考えではないだろうか。
その組織というのが「国民国家」ならば、必要性はけっして薄れないだろう。
そして私には、現在「国民国家」以外にそれを担える組織はないように思う。

「場」にはSNSのような交換の関係でもなく、贈与の関係でもない関係が含まれるかもしれない。
社交的な関係とでもいうのだろうか。
ただ、それはいざというとき社会保障の代わりになるのだろうか。
擬似的な共同体には慣れても、地域性がなくては緊急時に助け合うことはできないだろう。
普段からリアルに会っているならば普通の友人と同じことだ。
それだけでは、今の社会保障の代わりにはならない。

戦争がなくなり、個人がホームレスになることなど起こらない時代になれば、いざというときの最後の助け手である「国民国家」は必要なくなるかもしれない。
けれども、少なくとも今はホームレスがいる時代だ。
そのような環境で「国民国家」は終焉を迎えない。

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